仏教のお話

03-2-2-2 妙法蓮華経方便品第二

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方便とは、ウパーヤ upāya の訳です。「手段・方法・方策」などの意味があります。「近づける」というのがもとの意味ですから、仏教の場合は、「覚りに近づける方法」という意味で使われます。

ダルマ太郎
作成: 2023/09/09 (土) 15:39:15
最終更新: 2023/09/13 (水) 19:35:15
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ダルマ太郎 2023/09/09 (土) 16:44:22 修正

略開三顕一

法華経の説法は、方便品から始まります。序品では無量義処三昧に入っているために言葉は発していません。三昧とは、サマーディ samādhi の訳であり、「まとめる」、「心を整える」、「意図的な熟考」、「完全な吸収」などの意味があります。瞑想によって深い精神集中に入った状態のことです。

方便品の最初に釈尊は、三昧から覚めて舎利弗に説法をしました。

爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。

舎利弗、吾成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜皆已に具足せり。

舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。

舎利弗、如来は能く種々に分別し巧に諸法を説き言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。

止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

というのが、方便品の最初のところです。

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ダルマ太郎 2023/09/09 (土) 17:55:14 修正

**略開三顕一の解釈-1**

爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。

→その時に釈尊は、三昧よりゆっくりと起って、舎利弗に告げました。「諸仏の智慧は非常に深く量り知れません。その智慧の門は、理解し難く入ることが難しいのです。一切の声聞や縁覚の知りえるところではありません。それはなぜでしょう。仏は、かつて百千万億無数の諸仏に親しく近づき、悉く諸仏の無量の修行を行い、勇ましく何事にも恐れずに精進したので、その名は広く知れ渡りました。非常に深く希少な法を成就して、相手に合わせて説いた教えは理解しにくいのです。」

智慧とは、プラジュニャー prajñā の音写です。意訳すると「般若」です。諸仏の智慧とは、完成された智慧のことですから「般若波羅蜜多」です。ここでは、般若波羅蜜多は、声聞・縁覚では分からないと言っています。菩薩のことは言っていませんから、菩薩ならば智慧を完成させることができるのでしょう。このように、法華経では、般若波羅蜜多(智慧の完成)について説いていますので、法華経を学ぶ前には、『般若経』をマスターしておく必要があります。

百千万億無数というのは、「百×千×万×億×無数」のことです。無数とは、数えきれないほどの数ですから、具体的な数は分かりません。とにかく、非常に大きな数のことです。仏は、昔、非常に多くの仏に仕えて、多くの修行を行い、勇猛精進し、智慧を完成させたのですから、声聞・縁覚には分からないということでしょう。

「名称普く聞えたまえり」「宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し」という言葉はサンスクリット原典にはありません。おそらくは、多くの人々の支持を受け、多くの人々に向けて多種多様な説法をしたために、声聞・縁覚には分からない、というニュアンスがあるのだと思います。

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ダルマ太郎 2023/09/09 (土) 18:29:55 修正

略開三顕一の解釈-2

舎利弗、吾成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜皆已に具足せり。

「舎利弗。私は、成仏して以来、種々の因縁、種々の譬喩によって広く教えを説き、無数の方便によって、人々を導いて様々な執着から離れさせました。それは、如来が方便と智慧を完成させているからなのです。

釈尊は菩提樹の下で最高の覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を得ました。その内容があまりにも深かったため、人に説いても真理は伝わらないと思い、説法はしないほうがいいと思いました。しかし、すでに智慧の完成に近い者は説法方法を工夫することによって覚りにいたるだろうと思い返し、どのように説法をするかを思惟し、ついに方便波羅蜜を得ました。それは、因縁・譬喩・言辞を巧みに伝える方法です。こうして、釈尊は、俗諦によって真諦へと導く方法を覚ったのです。

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ダルマ太郎 2023/09/09 (土) 19:07:03 >> 4

略開三顕一の解釈-3

舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。

「舎利弗。如来の智慧は、広大深遠です。無量であり、妨げるものがありません。十力・四無畏・禅定・解脱・三昧によって深く無執着に入り、一切の稀有の法を成就しています。

舎利弗、如来は能く種々に分別し巧に諸法を説き言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。

「舎利弗。如来は、よく種々に分析し、巧みに諸法を説き、言葉は優しく柔らかくして、人々の心を悦ばせます。舎利弗。要点を言えば、無量無辺の法を、仏は悉く成就しているのです。」

ここでも、釈尊は方便と智慧を讃嘆しています。

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ダルマ太郎 2023/09/09 (土) 19:47:20

略開三顕一の解釈-4

止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

「止めましょう。舎利弗。このことは説かないほうがいいでしょう。なぜなら、仏の成就したことは、第一であり、稀有であり、難解だからです。ただ仏と仏だけがよく諸法の実相を見極めているのです。諸法の実相とは、諸法の相の真実、性の真実、体の真実、力の真実、作の真実、因の真実、縁の真実、果の真実、報の真実、相から報までが等しいという真実のことをいうのです。」

仏が成就した智慧は非常に難解なので説くことをためらわれました。智慧の対象である真理は、ただ仏と仏のみが見極めているのです。常人には分からないことだからでしょう。その真理のことを鳩摩羅什は諸法実相と名付けました。しかし、諸法実相に当たる言葉はサンスクリット原典にはありませんので、鳩摩羅什の超訳でしょう。

諸法の実相とは、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等のことだといいます。このことを「十如是」といい、天台・日蓮では重要視しました。十如是については、次回より説明します。

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ダルマ太郎 2023/09/12 (火) 15:58:55 修正 >> 6

十如是-1

相性体力作因縁果報について

1.相(そう)…ラクシャナー lakṣaṇa

相とは、ラクシャナー lakṣaṇa の訳です。特徴・特質・名称の意味です。外形・姿かたちという意味もあります。それを他と区別する時、そのものと他との違いを観ます。他との違いを特徴といい、特徴があれば他と分けられます。他との区別ができたものには、名称をつけていますから、相とは名称のことだという見方もあります。赤い花、大きな犬、美しい宝石などのように、それらは言葉によって表されます。

真理としての相(如是相)は、無相です。他と比べなければ特徴はありませんから、それ自体に何らかの特徴はありません。そのものの相の有無は否定されます。

2.性(しょう)…スヴァバーヴァ svabhāva

性というのは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳です。自性・本性・本来のありかたという意味です。赤い花なら、赤を赤とする性、花を花とする性があり、全体として赤い花としての性があります。インド人は、表面的な相とそれを成り立たせる性の二方向から観察しました。相があるところには、性がありますので、相性は一体です。

真理としての性(如是性)は、無自性です。そのものが無相ならば、そのものは空です。実体は欠如していますので、自性もありません。また、そのもの以外によって特徴があるように、そのものを成り立たせるのは他です。つまり、因縁に依って仮に有りますから自性の有無は否定されます。

3.体(たい)…ダーツ dhātu

体とは、ダーツ dhātu の訳です。「花が香る」という場合、香りの主は花です。このような何らかのはたらきを持つ主のことを体といいます。体は、相によって認識され、相は性と一体ですから、相性を持つ主体のことでもあります。相性体を総じて体ともいいます。

真理としての体(如是体)は、無体です。無相であり、無自性であるならば、その主体の有無も否定されます。

4.力(りき)…バラ bala

力とは、バラ bala の訳です。内に秘めた力、力用、潜在能力のことです。花が香るのは、その花に香りを出す力があるからです。

真理としての力(如是力)は、無力です。力の有無は否定されます。

5.作(さ)…カーラカ kāraka

作とは、カーラカ "kāraka" の訳です。作用・はたらき・力の発動のことです。花が香る時、香るということが作です。ものごとは、体と用(ゆう)によって観察されます。「花が香る」「水が流れる」「風が吹く」というように、主語と述語、名詞と動詞によって言葉にされます。私たちが、そのものを認識するのは、体用に依ります。そのものが何らかの働きをしなければ、主体を観ることはありません。見せる・聞かせる・嗅がせる・味あわせる・触れさせるなどの働きを発っしています。

真理としての作(如是作)は、無作です。作の有無は否定されます。

6.因(いん)…ヘーツ hetu

因とは、ヘーツ hetu の訳です。原因・理由・動機のことです。花が香る時、その主体は花ですから、因とは花のことです。花が香ることが結果です。花は香りという力を発動して、風や温度などの環境を縁とし、さらに香りをかぐ縁を得て、はじめて花が香ります。

真理としての因(如是因)は、無因です。因の有無は否定されます。

7. 縁(えん)…プラトヤヤ pratyaya

縁とは、プラトヤヤ pratyaya の訳です。プラトヤヤも原因という意味なのですが、仏教では、結果に至る原因は一つではなく多数であると観ますので、主原因を因といい、主原因を助ける原因を縁といいます。合わせて因縁です。よって、因は一つですが、縁は多数あります。深く観察すれば、縁は因以外のすべてのことです。

花が香るということは、香りをかいでいる者がいるということです。その者にとっては、花は縁です。このように、そのものを因としても、縁としても観ることができます。

真理としての縁(如是縁)は、無縁です。縁の有無は否定されます。

8.果(か)…パラ phala

果とは、パラ phala の訳です。結果という意味です。今、この瞬間を切り取れば、すべての物事は、因としても、縁としても、果としても観ることができます。

真理としての果(如是果)は、無果です。果の有無は否定されます。

9.報(ほう)…ヴィパーカ vipāka

報とは、ヴィパーカ vipāka の訳です。通常、果報といいます。結果とは、花が咲く、花が香るというような状態のことですが、果報とは境界のことをいいます。境界とは、苦楽、もっと分ければ、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上という境界です。花が咲いているということは、きちんと育った成果でしょうから、楽の境地、天上界にあるといえます。もし、成長の段階で枯れている草があれば、それは苦の境地、地獄界にあるといえるかも知れません。

よく報を時間経過として観る方がいますが、この十如是は、瞬間的にそのものを十の視点で観察しているのですから、時間という概念は必要ありません。相性体力作因縁果報等は、時空の一点についての観察です。もちろん、他との関わりはありますが、観る対象は一つです。

真理としての果報(如是報)は、無果報です。果報の有無は否定されます。

10.本末究竟等(ほんまつくきょうとう) …サマ sama

等というのは、等しい、平等のことでしょうから、サマ sama の訳だと思います。相性体力作因縁果報は、それぞれに違って見えるけれど、究めれば平等だということでしょう。すべては空ですから、仮に相性体力作因縁果報と分けて観察しても、究めれば平等だということです。

真理としての本末究竟等(如是本末究竟等)は、空です。

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ダルマ太郎 2023/09/12 (火) 16:45:08

十如是-2

サンスクリット原典での経文

tathāgata eva śāriputra tathāgatasya dharmān deśayed yān dharmāṃs tathāgato jānāti | sarva-dharmān api śāriputra tathāgata eva deśayati | sarva-dharmān api tathāgata eva jānāti | ye ca te dharmāḥ yathā ca te dharmā yādṛśāś ca te dharmā yal-lakṣaṇāś ca te dharmā yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ | ye ca yathā ca yādṛśāś ca yal-lakṣaṇāś ca yat-svabhāvāś ca te dharmā iti | teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo 'parokṣaḥ ||

シャーリプトラよ。実に如来は、如来が知っているところの諸法を如来のために示されるだろう。シャーリプトラよ。すべての法についてもまた、如来が示される。すべての法についてもまた、如来こそが知っている。諸法とは何か? 諸法とはどのようにあるか? 諸法とはどのようなものか? 諸法とはどのような特徴を持つか? 諸法とはどのような性を持つか?

諸法とは何か? どのようにあるか? どのようなものか? どのような特徴を持つか? どのような自性を持つか? ということを。それらの法について、如来だけが明瞭にし、明らかに見ている。

このように、「それらのものごとが、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような自性を持っているのかを如来だけが知り得ている」と説かれています。サンスクリット原典には五つの項目しかありませんが、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経には十の項目があります。このことで、天台智顗の一念三千の根拠を失うという方もいますが、三千とは諸法の事なので、数にはこだわらなくていいように思えます。

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ダルマ太郎 2023/11/04 (土) 19:34:59

では、方便品第二の経文を最初から読んでいきます。

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ダルマ太郎 2023/11/04 (土) 19:45:23 修正

略して開三顕一を顕す

言に寄せて権実二智を讃嘆する

諸仏の二智を讃嘆する

爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく。諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。

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ダルマ太郎 2023/11/04 (土) 20:25:58 修正 >> 10

開三顕一とは?

開三顕一(かいさんけんいち)とは、「三を開いて一を顕す」ことです。「三」は声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)の三乗、「一」は法華の一乗のことです。声聞・縁覚・菩薩に対する教えはすべて方便です。言い換えれば言葉によって説かれた教えは方便です。真理(法)は、言語道断ですから、言葉によって表すことはできません。

よく、法華経以外の経典には真理は説かれていないけれど、法華経には真理が説かれていると解釈する人がいますが、言葉によって説かれた教えはすべて方便であって真理ではありませんから、法華経にも真理そのものは説かれていません。

開顕の「開」とは、「開除」のことで、執らわれた心を開き除くことです。「顕」とは、「顕示」のことで、真実の意義を顕し示すことです。開顕は、天台宗の解釈であり、開三顕一・開権顕実・開迹顕本・開近顕遠などと説かれています。

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ダルマ太郎 2023/11/04 (土) 19:52:00

略して開三顕一を顕す

言に寄せて権実二智を讃嘆する

釈尊の二智を讃嘆する

舎利弗、吾成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜皆已に具足せり。

舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。

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ダルマ太郎 2023/11/04 (土) 20:02:17

略して開三顕一を顕す

言に絶して権実二智を讃嘆する

舎利弗、如来は能く種々に分別し巧に諸法を説き言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。

止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。