<「金 範松」論文の要点>
『心・意・識説に関する研究』
― 阿頼耶識と末那識との関係を中心― 金 範松
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難陀等:まず、前五識は、第六識をもってその所依とする。なぜなら、五識が現起する時には、必ず意識が俱に起きるので眼等の根をその所依とすべきではない。五根は五識の種子であると主張する。次に、第六識は、第七識をもってその所依とする。なぜなら、この識は必ず末那に託して起こるからである。そして、第七識と第八識とは、別に所依はない。なぜなら、第七・第八はいずれも恒に相続して転じており、自力が勝れているからであるという。
前五識→第六識
五識→五根
第六識→第七識
第七識と第八識とに所依はない。
安慧等:難陀等の説を全面否定して論破する。難陀は五根を五識の種子だというが、その時、起きる過失について十難を立てて論破する。そして、前五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依がある。それは五色根(五根)と五識と同時の第六識(五俱意識)だという。第六意識は、必ず恒に一つの俱有依がある。つまり、七識である。五識と共に起こる時は、さらに五識をも俱有依とする。第七識は、必ずただ一つの俱有依がある。つまり、第八識である。ただ第八識は、恒に転変する
ことがなく、自らよく立つので俱有依は無いという。
五識→五根× 十難を立てて論破する。
安慧は、五識は、一つ一つに必ず二つの俱有依があると主張。
五識→五根と「五識と同時の第六識」の二つの俱有依がある。
第六意識→七識
五識と共に起こる時は、五識をも俱有依とする。
第六意識→七識・五識
七識→八識
八識は、恒に転変することがなく、俱有依は無い。
浄月等:前の安慧の説に対して、七識については同じであるが、第八識に俱有依がないことについては、未だ理を尽くしていないと批判する。即ち第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張する。さらに、現行識にその依がある限り、種子識にもまた、現行識に依るべきだと主張する。従って第八識の現行識においては、決定して第七識をもってその所依とする。第七・第八二識は、俱に間断なく恒に相続するので互に俱有依とする。もし、有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。また、種子識においては、決定して第八現行は依る。これ第八現行は種子の住依
となるのでという。
第八識に俱有依がないことについては、
未だ理を尽くしていないと批判する。
第八識も識性なる限り、俱有依があるべきだと主張。
しかがって第八識の現行識においては、
決定して第七識をもってその所依とする。
第八識→第七識
第七・第八の二識は、俱に間断なく
恒に相続するので互に俱有依とする。
第七⇄第八
有色界にある時には、また、五根をもって所依とする。
護法の批判:護法は、前三師の説は皆理に応じないと論破する。なぜなら、そもそも依存関係にある法には「依」と「所依」との区別があると主張する。「依」とは、広く因縁・等無間縁等の四縁に通じ、すべての有為法において因に頼り、縁に託して生じ住する法を皆「依」と名づける。それは、例えば、王と臣が互いに相依る如くのものである。しかし、これを「所依」と名づけるべきではない。俱有の所依と名づけるべきものは、必ず決定・有境・為主および取自所縁の四義を俱にしなければならない。これらの条件を備えているのは内の六処(六根と六境)である。然るに前三師は、何れもこれを弁別しないので間違いであるという。
第六意識は第七末那識を依とするが第七意識は第六末那識を依とはしない(不共依)
第六意識→第七末那識(不共依の直接関係)