仏教界の重要学術論文を集約したトピックです。
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法介
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『百六箇抄』
下種十不二門の本迹
日蓮が十不二門は事上極極の事理一躰用の不二門なり。
十不二の範疇論(2) 池田 魯参
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18560/KJ00005112884.pdf
十不二の範疇論(3) 池田 魯参
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18574/KJ00005112905.pdf
『十不二 門』の第七「自他不二 門・第八「三 業不二 門」の解明 島村 大心
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/61/0/61_KJ00009011824/_pdf
趙宋天台における修性離合義の解釈について (必読!)
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/2181/files/BungakuKenkyukaKiyo1_60_Yuba.pdf
既に触れたように、智顗は真性軌・観照軌・資成軌の三軌でもって諸の三法を類通し、十種三法を数えることで教学全体の依って立つところの師軌を示した。このことを思えば、湛然のここでの解釈は、修性三因の義に代表される新たな「大綱」で以て、天台の一切法門を該摂することを図ったものとも言い得るだろう。また、文中に「具如 修性不二門説」として指示される『十不二門』修性不二門においては、次のように説かれる。
十不二門 (No. 1927_ 湛然述 ) in Vol. 46
T1927.46.0703b10: 三修性不二門者。性徳秖是界如一念。此内
T1927.46.0703b11: 界如三法具足。性雖本爾。藉智起修。由修照
T1927.46.0703b12: 性。由性發修。存性則全修成性。起修則全性
T1927.46.0703b13: 成修。性無所移修常宛爾。修又二種。順修逆
T1927.46.0703b14: 修。順謂了性爲行。逆謂背性成迷。迷了二心。
T1927.46.0703b15: 心雖不二逆順二性。性事恒殊。可由事不移
T1927.46.0703b16: 心。則令迷修成了。故須一期迷了照性。成修
T1927.46.0703b17: 見性修心二心倶泯。又了順修對性有離有
T1927.46.0703b18: 合。離謂修性各三。合謂修二性一。修二各三
T1927.46.0703b19: 共發性三。是則修雖具九。九秖是三。爲對性
T1927.46.0703b20: 明修故合修爲二。二與一性如水爲波。二亦
T1927.46.0703b21: 無二亦如波水。應知性指三障。是故具三。修
T1927.46.0703b22: 從性成。成三法爾。達無修性唯一妙乘。無所
T1927.46.0703b23: 分別。法界洞朗。此由内外不二門成
>> 21から>> 25まで、時間のある時にじっくりと考察する事。(重要課題!)
四聖諦説
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0047/DB00470L033.pdf
『成唯識論』の縁起思想
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30401/rbb041-19.pdf
所縁の見方に関して、『倶舎論』と唯識の間では、行相を相分に見るか見分に見るか、あるいは相分に所縁を見るか見ないかといった、識の構造の理解に関する違いが出てくる。説一切有部でも識に相分にあたるものを認めるが、その相分はすなわち行相であるとして、それを所縁とは言わない。この結果、もっぱら識の外の対象が、所縁ということになる。しかし唯識では、ここにあるように、識内の相分を親所縁縁とし、その外の対象を疎所縁縁として、むしろ識内に所縁縁を認めるのである。
唯識三十頌【18頌】
https://ameblo.jp/yk19610402/entry-12861538330.html
https://www.youtube.com/watch?v=BUHaeC-bWYM
道元さんの仏性観
https://zenken.agu.ac.jp/zen/story/h15.html
③唯識三十頌【18頌】増上縁とは二十二根
https://youtu.be/Lrpfg6pb7hw
三性説と唯識三性説
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/56/2/56_KJ00005180828/_pdf/-char/ja
唯識三性説に関する上田・長尾論争の問題点 北野 新太郎
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0033/DO00330L001.pdf
依他起性の 「識体」は 「識の自体分」の外側にまで展開し得るのか? 北野 新太郎
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/62/1/62_KJ00008992059/_pdf/-char/ja
唯識の思想と実践 北野 新太郎
https://nbra.jp/publications/78/pdf/78_a-2_09.pdf
『十地経』第五難勝地における 菩薩と衆生の関係性 松岡 明子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/68/2/68_1027/_pdf/-char/ja
『成唯識論述記』の伝える安慧の一分説について
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34873/jbk073-03-yoshimura.pdf
『成唯識論述記』訳注(三)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『成唯識論』の三性説の解釈について 吉村 誠
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36083/rbb047-06-yoshimura.pdf
唯識における業について
https://core.ac.uk/download/pdf/231050144.pdf
修正
二取・二分論 勝呂 信静
https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/7410/files/083_第8号_二取・二分論.pdf
唯識08 第十八頌 縁
https://renshouji.com/唯識08 第十八頌 縁/
「本質」 と 「疎所縁縁」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/1/60_KJ00007730064/_pdf/-char/ja
新古唯識における相違点
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/63/1/63_KJ00009742248/_pdf
唯識はいかに他者を語るか 近藤伸介
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0045/DB00450L035.pdf
成唯識論卷第一
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_001
成唯識論卷第二
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
成唯識論卷第三
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_003
成唯識論卷第四
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_004
成唯識論卷第五
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_005
成唯識論卷第六
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_006
成唯識論卷第七(14~18頌 )
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_007
成唯識論卷第八
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_008
成唯識論卷第九
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_009
成唯識論卷第十
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_010
『成唯識論述記』訳注(一)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/406/files/07曾根訳注.pdf
『成唯識論述記』訳注(三)
https://shujitsu.repo.nii.ac.jp/record/551/files/09曾根訳注.pdf
『成唯識論』巻の第二
https://cbetaonline.dila.edu.tw/zh/T1585_002
謂不可知執受 了謂了別 即是行相 識以了別為行相故
不可知の執受・處と了となり。了とはいわく、了別なり、即ち是れ行相なり、識は了別するを以て行相と為すが故に。
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。
處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。
執受に二有り、謂く、諸の種子と及び有根身とぞ。諸の種子とは、いわく、諸の相と名と分別との習氣なり。
有根身者,謂諸色根及根依處。
有根身とは、いわく、諸の色根と及び根依處とぞ。
此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。
此の二は、皆是れ識に執受せられ、攝して自体と為す、安と危とを同じうするが故に。
執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,
執受と及び處とは、俱に是れ所緣なり。阿賴耶は、因と緣との力の故に、自体生ずる時、内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。
即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
即ち以所を以て自の所緣と為す、行相は、之に仗して起ることを得が故に。
此中了者,謂異熟識於自所緣有了別用,
此の中に、了とはいわく、異熟識いい自の所緣に於て了別の用有るなり。
此了別用見分所攝。
此の了別の用は、見分に攝めらる。
然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現。
然も有漏識の自体生ずる時に、皆所緣・能緣に似る相現ず。
彼相應法應知亦爾。似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。
彼の相應法も應に知るべし亦爾なり。所緣に似る相をば、說いて相分と名け、能緣に似る相をば、說いて見分と名く。
若心心所無所緣相,應不能緣自所緣境,
若し心心所の所緣の相無くんば、自の所縁の境を縁ずること能はざるべし。
或應一一能緣一切,自境如餘、餘如自故。
或は一一いい、能く一切を縁ずべじ、自境も餘の如く餘も自の如くあるべきが故に。
若心心所無能緣相,應不能緣如虛空等,
若し心心所いい能緣の相無くんば、能緣にあらざるべし、虛空等の如し。
或虛空等亦是能緣,故心心所必有二相。如契經說 一切唯有覺, 所覺義皆無,能覺所覺分, 各自然而轉。
或は虛空等も、亦是れ能緣なるべし。故に心心所は、必ず二の相有り。契經に說けるが如し、一切は唯覺み有り、 所覺の義は皆無し、能覺と所覺との分いい、各々自然にして而も転ずという。
執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心心所自體相故。
識に離れたる所緣の境有りと執する者、彼が說かく、外境は是れ所緣なり、相分をば行相と名け、見分をば事と名く、是れ心心所の自体の相なるが故に。
心與心所同所依緣行相相似,事雖數等而相各異,識受想等相各別故。
心と心所とは、所依・緣同なり、行相相似せり。事は數等しと雖、而も相各々異り、識と受と想との等きいい、相各別なるが故にという。
達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,
識に離たる所緣の境無しと達せる者則ち說かく、相分は是れ所緣なり、見分をば行相と名く。
相見所依自體名事,即自證分。此若無者,應不自憶心心所法,如不曾更境必不能憶故。
相と見とが所依の自体をば事と名く、即ち自證分なり。此いい若し無くんば、自ら心心所法をば憶せざるべし、曾更ざりし境をば、必ず憶すること能はざるが如くなるが故に。
心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別領納等作用各異故,
心と心所とは所依の根同なり、所緣相似せり、行相各別なり、了別し領納するが等き作用各々異が故に。
事雖數等而相各異,識受等體有差別故。
事は數等しと雖も、而も相各々異り、識と受との等き、体差別有るが故に。
然心心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相見必有所依體故。
然も心と心所とは、一一いい生ずる時に、理を以て推徵するに、各々三の分有り、所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは、必ず所依の体有るが故に。
如《集量論》伽他中說 似境相所量, 能取相自證,即能量及果, 此三體無別。
『集量論』の伽他の中に說くが如し、境に似たる相は所量なり、能く相を取ると自證とは、即ち能量と及び果となり、此の三は体無なること無しという。
又心心所若細分別應有四分,三分如前,復有第四證自證分。
又、心心所を若し細く分別するに、四分有るべし。三分は前の如し、復第四の證自證分有り。
此若無者,誰證第三心分既同,應皆證故。
此いい若し無くんば、誰か第三を證せむ、心分をいうは既に同なるをもって、皆證すべきが故に。
又自證分應無有果,諸能量者必有果故。
又、自證分は、果有ること無かるべし、諸の能量は必ず果有るが故に。
不應見分是第三果,見分或時非量攝故。
見分は是れ、第三が果には應ぜず、見分は或時には、非量にも攝するが故に。
由此見分不證第三,證自體者必現量故。
此に由って見分は第三を證せず、自体を證するは、必ず現量なるが故に。
此四分中,前二是外、後二是內。
此の四分の中に、前の二は是れ外なり、後の二は是れ內なり。
世親『五蘊論』の無為法について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/62/2/62_KJ00009296616/_pdf/-char/ja
『大乗起信論』の真如説の一考察
https://toyo.repo.nii.ac.jp/record/9417/files/higashiasiabukkyou4_225-255.pdf
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