『成唯識論』巻の第二
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謂不可知執受 了謂了別 即是行相 識以了別為行相故
不可知の執受・處と了となり。了とはいわく、了別なり、即ち是れ行相なり、識は了別するを以て行相と為すが故に。
處謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。
處とはいわく、處所なり、即ち器世間なり、是れ諸の有情の所依處なるが故に。
執受有二,謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相名分別習氣。
執受に二有り、謂く、諸の種子と及び有根身とぞ。諸の種子とは、いわく、諸の相と名と分別との習氣なり。
有根身者,謂諸色根及根依處。
有根身とは、いわく、諸の色根と及び根依處とぞ。
此二皆是識所執受,攝為自體同安危故。
此の二は、皆是れ識に執受せられ、攝して自体と為す、安と危とを同じうするが故に。
執受及處俱是所緣。阿賴耶識因緣力故自體生時,內變為種及有根身,外變為器,
執受と及び處とは、俱に是れ所緣なり。阿賴耶は、因と緣との力の故に、自体生ずる時、内には変種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。
即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。
即ち以所を以て自の所緣と為す、行相は、之に仗して起ることを得が故に。
此中了者,謂異熟識於自所緣有了別用,
此の中に、了とはいわく、異熟識いい自の所緣に於て了別の用有るなり。
此了別用見分所攝。
此の了別の用は、見分に攝めらる。
然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現。
然も有漏識の自体生ずる時に、皆所緣・能緣に似る相現ず。
彼相應法應知亦爾。似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。
彼の相應法も應に知るべし亦爾なり。所緣に似る相をば、說いて相分と名け、能緣に似る相をば、說いて見分と名く。
若心心所無所緣相,應不能緣自所緣境,
若し心心所の所緣の相無くんば、自の所縁の境を縁ずること能はざるべし。
或應一一能緣一切,自境如餘、餘如自故。
或は一一いい、能く一切を縁ずべじ、自境も餘の如く餘も自の如くあるべきが故に。
若心心所無能緣相,應不能緣如虛空等,
若し心心所いい能緣の相無くんば、能緣にあらざるべし、虛空等の如し。
或虛空等亦是能緣,故心心所必有二相。如契經說 一切唯有覺, 所覺義皆無,能覺所覺分, 各自然而轉。
或は虛空等も、亦是れ能緣なるべし。故に心心所は、必ず二の相有り。契經に說けるが如し、一切は唯覺み有り、 所覺の義は皆無し、能覺と所覺との分いい、各々自然にして而も転ずという。
執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心心所自體相故。
識に離れたる所緣の境有りと執する者、彼が說かく、外境は是れ所緣なり、相分をば行相と名け、見分をば事と名く、是れ心心所の自体の相なるが故に。
心與心所同所依緣行相相似,事雖數等而相各異,識受想等相各別故。
心と心所とは、所依・緣同なり、行相相似せり。事は數等しと雖、而も相各々異り、識と受と想との等きいい、相各別なるが故にという。
達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,
識に離たる所緣の境無しと達せる者則ち說かく、相分は是れ所緣なり、見分をば行相と名く。
相見所依自體名事,即自證分。此若無者,應不自憶心心所法,如不曾更境必不能憶故。
相と見とが所依の自体をば事と名く、即ち自證分なり。此いい若し無くんば、自ら心心所法をば憶せざるべし、曾更ざりし境をば、必ず憶すること能はざるが如くなるが故に。
心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別領納等作用各異故,
心と心所とは所依の根同なり、所緣相似せり、行相各別なり、了別し領納するが等き作用各々異が故に。
事雖數等而相各異,識受等體有差別故。
事は數等しと雖も、而も相各々異り、識と受との等き、体差別有るが故に。
然心心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相見必有所依體故。
然も心と心所とは、一一いい生ずる時に、理を以て推徵するに、各々三の分有り、所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは、必ず所依の体有るが故に。
如《集量論》伽他中說 似境相所量, 能取相自證,即能量及果, 此三體無別。
『集量論』の伽他の中に說くが如し、境に似たる相は所量なり、能く相を取ると自證とは、即ち能量と及び果となり、此の三は体無なること無しという。