『唯識』の一切法についてのお話です。
こちらのレス813の続きです。 https://talk.jp/boards/psy/1728215918
別教の菩薩は、仏を対境とした三昧で
析空で客観を空じ、体空で主観を空じ
この二空を以て仏の空観へ意識が入っていきます。
凡夫の主観と客観から離れる事で、意識が表層の第六意識から深層の第七末那識に変わります。
それにより自身の阿頼耶識に意識は向きます。
ここで過去世に仏と結縁がある者は無漏の種子を拾い上げる事が出来ます。
これが先天性の無漏の種子です。
過去に結縁が無い者の場合、有漏の種子が熏習されます。
ここで馬ちゃんに『十法界事』という御書を紹介します。
以前にも法介スレで紹介した御書ですが、
今回の内容と大変関係が深い内容なので
出来たら下のリンク先の講義を直接目を通される事をお勧めします。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52260.html
この御書の重要なポイントを後ほど詳しく解説致します。
あと新潟市の図書館に「唯識三十頌」を読む 加藤 弘二郎 著書
は置いてないようだったので(再販もされてないもよう)
重要な個所をここで文字お越しをやっていきます。
最初に加藤氏は、「識転変」について次のように説明している。
そもそも仏教では永遠不滅な「我」や「法」というものは存在しないと考える。中観派の人々はそれを「空」であると表現していることは有名であるが、唯識思想では、その「空」とは一体何かと言う問いに真正面から答えようとした。それがこの「識転変」なる考え方である。スティラマティの注釈によれば、「転変」とは、「変化すること」と解説される。すなわち、原因となるある刹那が消滅し、と同時にその刹那とは別の刹那が、形を変えて、新たな結果として生起することである。
今ここに、一個のりんごがあるとする。このりんごは、その場所に、形を変えずに存在しているように思われるが、数日もたてば、水分が飛び、しなびて、ゆくゆくは腐ってしまう、これは、りんごが一瞬一瞬、刹那滅を繰り返し、徐々に形を変えていっているからに他ならない。
しかも、そのりんごは、実際そこに存在するのではなく、我々の心の中に現れ出ているものに過ぎないと考える。実際、目の前にあるりんごを、それを見ている者達がみな同じ色、形として認識しているとは限らないし、同じにおいがしているとも限らないのである。この道理こそが、世親の説く「識の転変」と言われるものである。また、玄奘は漢文にする際、このパリナーマ(転変)なる語に「所変」・「能変」という二種類の語を使い分けている。この点に関しては、専門家においても意見の分かれるところであり、ここではこれ以上立ち入らないことにする。同じ「転変」という意味で理解されたい。
能変=変化せしめるもの 所変=変化せしめられたもの
唯識では能取を主体、所取を客体とするが、
見られる側(所取)=客体 見る側 (能取)=主体
この主体と客体の関係と、主観と客観である相分と見分とをごちゃにしないように注意が必要である。
主観=見分 客観=相分
客体(見られる側)=真実のモノのあり様 --- ① 主体(見る側) =凡夫の認識(主観と客観)--- ②
蔵教では客観として存在する客体の真理 ① が詳しく説き明かされます。
ここでは人間のあり様も〝客観〟という視点で説き明かされておりますが、この視点(客観)は、科学や物理学と全く同じ視点となります。
いわゆる、俗世間における真理が『倶舎論』として説かれております。
科学と同じ視点なので、ここでの「空」は『小空経』で説かれる「有る無し」の二元論となります。
それに対し通教では、見る側の「人間の認識」のあり方が『唯識』で詳しく説き明かされます。
ここでの「空」は、大空経で説かれる四空となります。
析空・体空・法空・非空の四つの空なのですが、析空が蔵教で説かれ、体空が通教で説かれ、法空が別教で説かれ、非空が円教でそれぞれ詳しく解き明かされていきます。
先ほどお話しました別教の菩薩は、析空で客観を空じ、体空で主観を空じてこの二空で人間の主観と客観が空じられます。すると次のステップで仏は、『大乗起信論』で仏に対する「信」を起こしなさいと説かれます。
不適切なコンテンツとして通報するには以下の「送信」ボタンを押して下さい。 現在このグループでは通報を匿名で受け付けていません。 管理者グループにはあなたが誰であるかがわかります。
どのように不適切か説明したい場合、メッセージをご記入下さい。空白のままでも通報は送信されます。
通報履歴 で、あなたの通報と対応時のメッセージを確認できます。
トピックをWIKIWIKIに埋め込む
次のコードをWIKIWIKIのページに埋め込むと最新のコメントがその場に表示されます。
// generating...
プレビュー
ここまでがあなたのコンテンツ
ここからもあなたのコンテンツ
別教の菩薩は、仏を対境とした三昧で
析空で客観を空じ、体空で主観を空じ
この二空を以て仏の空観へ意識が入っていきます。
凡夫の主観と客観から離れる事で、意識が表層の第六意識から深層の第七末那識に変わります。
それにより自身の阿頼耶識に意識は向きます。
ここで過去世に仏と結縁がある者は無漏の種子を拾い上げる事が出来ます。
これが先天性の無漏の種子です。
過去に結縁が無い者の場合、有漏の種子が熏習されます。
ここで馬ちゃんに『十法界事』という御書を紹介します。
以前にも法介スレで紹介した御書ですが、
今回の内容と大変関係が深い内容なので
出来たら下のリンク先の講義を直接目を通される事をお勧めします。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52260.html
この御書の重要なポイントを後ほど詳しく解説致します。
あと新潟市の図書館に「唯識三十頌」を読む 加藤 弘二郎 著書
は置いてないようだったので(再販もされてないもよう)
重要な個所をここで文字お越しをやっていきます。
最初に加藤氏は、「識転変」について次のように説明している。
そもそも仏教では永遠不滅な「我」や「法」というものは存在しないと考える。中観派の人々はそれを「空」であると表現していることは有名であるが、唯識思想では、その「空」とは一体何かと言う問いに真正面から答えようとした。それがこの「識転変」なる考え方である。スティラマティの注釈によれば、「転変」とは、「変化すること」と解説される。すなわち、原因となるある刹那が消滅し、と同時にその刹那とは別の刹那が、形を変えて、新たな結果として生起することである。
今ここに、一個のりんごがあるとする。このりんごは、その場所に、形を変えずに存在しているように思われるが、数日もたてば、水分が飛び、しなびて、ゆくゆくは腐ってしまう、これは、りんごが一瞬一瞬、刹那滅を繰り返し、徐々に形を変えていっているからに他ならない。
しかも、そのりんごは、実際そこに存在するのではなく、我々の心の中に現れ出ているものに過ぎないと考える。実際、目の前にあるりんごを、それを見ている者達がみな同じ色、形として認識しているとは限らないし、同じにおいがしているとも限らないのである。この道理こそが、世親の説く「識の転変」と言われるものである。また、玄奘は漢文にする際、このパリナーマ(転変)なる語に「所変」・「能変」という二種類の語を使い分けている。この点に関しては、専門家においても意見の分かれるところであり、ここではこれ以上立ち入らないことにする。同じ「転変」という意味で理解されたい。
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
唯識では能取を主体、所取を客体とするが、
見られる側(所取)=客体
見る側 (能取)=主体
この主体と客体の関係と、主観と客観である相分と見分とをごちゃにしないように注意が必要である。
主観=見分
客観=相分
客体(見られる側)=真実のモノのあり様 --- ①
主体(見る側) =凡夫の認識(主観と客観)--- ②
蔵教では客観として存在する客体の真理 ① が詳しく説き明かされます。
ここでは人間のあり様も〝客観〟という視点で説き明かされておりますが、この視点(客観)は、科学や物理学と全く同じ視点となります。
いわゆる、俗世間における真理が『倶舎論』として説かれております。
科学と同じ視点なので、ここでの「空」は『小空経』で説かれる「有る無し」の二元論となります。
それに対し通教では、見る側の「人間の認識」のあり方が『唯識』で詳しく説き明かされます。
ここでの「空」は、大空経で説かれる四空となります。
析空・体空・法空・非空の四つの空なのですが、析空が蔵教で説かれ、体空が通教で説かれ、法空が別教で説かれ、非空が円教でそれぞれ詳しく解き明かされていきます。
先ほどお話しました別教の菩薩は、析空で客観を空じ、体空で主観を空じてこの二空で人間の主観と客観が空じられます。すると次のステップで仏は、『大乗起信論』で仏に対する「信」を起こしなさいと説かれます。