仏道の『阿頼耶識システム』

体の仏と用の仏 (Talk板パート24の続き)

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https://talk.jp/boards/shugi/1715730991

↑こちらのお話(155まで)の続きです。

方便の解脱とは、前五識が「声聞の智慧」によって成所作智へ転識します。

<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する

 妙=仏眼:第九識は法界体性智
 法=法眼:第八識は大円鏡智
 蓮=慧眼:第七識は平等性智
 華=天眼:第六識は妙観察智
 経=肉眼:前の五識は成所作智(←ここ
(※肉眼の意味を考えましょう)

次に実慧の解脱は、第六識が「縁覚の智慧」によって妙観察智へと転識します。

<仏意の五重玄>諸仏の内証に五眼の体を具する

 妙=仏眼:第九識は法界体性智
 法=法眼:第八識は大円鏡智
 蓮=慧眼:第七識は平等性智
 華=天眼第六識は妙観察智(←ここ
 経=肉眼:前の五識は成所作智
(※天眼の意味を考えましょう)

法介
作成: 2023/11/27 (月) 06:09:48
最終更新: 2024/05/15 (水) 10:56:12
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法介 2023/11/27 (月) 06:26:17

三種の不思議解脱の最後の真性の解脱を説明する前に『諸法実相抄』の

されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり

凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」の一節は、前文の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を受けたもので、「妙法蓮華経」こそ体の三身であり、本仏であると仰せです。

ではその「妙法蓮華経」の三身とは何かと言いますと、

 曼荼羅御本尊  ---応身---仮諦
 法華経     ---報身---空諦
 南無妙法蓮華経 ---法身---中諦

となります。

これは次に示す三因仏性でもあります。

 曼荼羅御本尊  ---縁因仏性
 法華経     ---了因仏性
 南無妙法蓮華経 ---正因仏性

本来は阿頼耶識に眠っているこの三つの仏性を日蓮大聖人が仏と仏縁を持たない末法の衆生でも阿頼耶識から拾い上げれるように三つの修行の〝因〟として凡夫が認識出来る「色界」に相・性・体として顕して下さったのです。

凡夫の世界(色界)は相・性・体で成り立っている世界ですので。

<凡夫の世界観(仮観)の真理(仮諦)>
 相(仮)=色即是空
 性(空)=空即是色
 体(中)=色即是空 空即是色

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法介 2023/11/27 (月) 06:52:18

天台智顗が顕した円融三諦、即ち一心三観は次の内容となっております。

円融三諦
「仮一切仮」
「空一切空」
「中一切中」

これは蔵教・通教・別教でひも解かれた凡夫の世界観(蔵教)、仏の世界観(通教)、如来の世界観(別教)を別相三観として開き(三乗の教え)、

別相三観

<凡夫の世界観>---(三観)
 客観(仮観)=有 ---①
 主観(空観)=無 ---②
 実体(中観)=亦有亦無 ---③

<仏の世界観>---(三諦)
 相(仮諦)=色即是空(非有)---A
 性(空諦)=空即是色(非無)---B
 体(中諦)=色即是空 空即是色(非有非無=空)---C

<如来の世界観>---(三身)
 縁因仏性(応身)=曼荼羅本尊(亦有亦無)---壱
 了因仏性(報身)=法華経(非有非無)---弐
 正因仏性(応身)=南無妙法蓮華経(亦有亦無・非有非無)---参

それを次のように枠組みを超えて再編成した内容となります。

通相三観

<円融三観>
 ①+A+壱=仮一切仮
 ②+B+弐=空一切空
 ③+C+参=中一切中

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法介 2023/11/27 (月) 07:08:01

通相三観の仮一切仮が方便の解脱にあたり、空一切空が実慧の解脱、中一切中が真性の解脱となります。

<円融三観>
 ①+A+壱=仮一切仮 ---(方便の解脱
 ②+B+弐=空一切空 ---(実慧の解脱
 ③+C+参=中一切中 ---(真性の解脱

これは相(仮観)・性(空観)・体(中観)の三つの世界観を阿頼耶識の三因でそれぞれ開いて顕れる世界観です。その世界観が欲界、色界、無色界の三界の世界観として凡夫の一身に顕われます。

 方便の解脱=欲界  ---(応身
 実慧の解脱=色界  ---(報身
 真性の解脱=無色界 ---(法身

これが体の仏である「凡夫の三身」です。

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法介 2023/11/27 (月) 07:25:52

この「凡夫の三身」を体顕する修行が勤行(法華経の読誦)です。十如是の三編読みで>> 3を体顕します。

勤行の後のお題目の唱題行はその体の「凡夫の三身」と用の「仏の三身」が『南無妙法蓮華経』で一つに融け合い(融合)、境と智が冥合した「境智冥合」を体顕する儀式です。

これによって体の仏と用の仏とが一体となって当体蓮華の真実の仏(本仏)が顕れて凡夫の身のまま即身で仏と成ります。

これを即身成仏と言います。

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法介 2023/11/27 (月) 07:27:44

十如是事』では次のように仰せです。

 我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云く如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等文、初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり、されば此の三如是を三身如来とは云うなり此の三如是が三身如来にておはしましけるを・よそに思ひへだてつるがはや我が身の上にてありけるなり、かく知りぬるを法華経をさとれる人とは申すなり此の三如是を本として是よりのこりの七つの如是はいでて十如是とは成りたるなり、此の十如是が百界にも千如にも三千世間にも成りたるなり、かくの如く多くの法門と成りて八万法蔵と云はるれどもすべて只一つの三諦の法にて三諦より外には法門なき事なり、其の故は百界と云うは仮諦なり千如と云うは空諦なり三千と云うは中諦なり空と仮と中とを三諦と云う事なれば百界千如・三千世間まで多くの法門と成りたりと云へども唯一つの三諦にてある事なり、されば始の三如是の三諦と終の七如是の三諦とは唯一つの三諦にて始と終と我が一身の中の理にて唯一物にて不可思議なりければ本と末とは究竟して等しとは説き給へるなり、是を如是本末究竟等とは申したるなり、始の三如是を本とし終の七如是を末として十の如是にてあるは我が身の中の三諦にてあるなり、此の三諦を三身如来とも云へば我が心身より外には善悪に付けてかみすぢ計りの法もなき物をされば我が身が頓て三身即一の本覚の如来にてはありける事なり、是をよそに思うを衆生とも迷いとも凡夫とも云うなり、是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚とも聖人とも智者とも云うなり、かう解り明かに観ずれば此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるるなり