「なあ、あんた。悪いこと言わないから早めにここ出ていった方がいいよ」
机を挟んで対面に座った少年の忠告に対し、その褐色肌の麗人は大きな目をぱちぱちと瞬かせた。
綺麗な目だ。ダークレッドとも言うべきか、赤の発色を伴った黒い瞳。
顔立ちは垢抜けた女性のそれだったが、その目だけはまるで子供みたい。昏さが無くて稚気できらきらと光っている。
濃い二十代を経た三十代にも見えるし、まだまだ好奇心旺盛な十代にも見える。不思議な女だ。
「なんでよ。ここには来たばっかりだっていうのに。
あ、それともちょっと目立ちすぎてる? いや~、お腹ペコペコでさぁ。キミにここへ連れてきてもらえなかったら参ってたわよ」
そういう問題じゃなくてさぁ、と呟きつつもまだローティーンほどの少年は机の上へちらりと視線をやった。
もうお祭り状態だった。宝石箱の中身をぶちまけたように多種多様な料理の皿が所狭しと占拠している。
そのどれもが半ば食べ尽くされ、残りもこの女の腹の中に収まるのは時間の問題みたいだ。
よく食う女だし、美味そうに食う女だ。店員やちらほらといる客からもじろじろと好奇の視線が女に注がれていた。
ここはこのあたりで一番大きな街から半日もバスの中で揺られなければ辿り着けないスペインのド田舎だから、余所者は珍しいのだ。
だが少年が逗留を勧めない理由は何もこの街の排他的性質から来るものというわけでは無かった。
少年はつい声を潜めた。既にこの気味の悪い話題は日常においてはタブー視されるようになって久しい。
「あんた知らないの? ここ最近はさ。このあたりで失踪事件がいくつも起こっているんだ」
「………」
ふんふんと女が頷く。それに合わせて豊かな銀の髪がぴかぴかと蛍光灯を反射して光っていた。
聞いている間もフォークとスプーンの動きは止まらない。まるでダンスでも踊っているみたいだ。
小気味いい食べっぷりでみるみるうちに皿の上のものが片付いていく。真面目に聞いているのか怪しくなるくらいに。少年はやや嘆息した。
「何人もいなくなっているんだよ。隣町なんかじゃさ、集団失踪事件なんて発生したりしててさ。
他にもみんな怖がって話しないけど、路地裏で物凄い量の血がぶち撒けられていたとか………とにかく気持ち悪い噂や事件ばっかり続いてるんだ。
すっかり夜は誰も出歩かなくなって、街の人たちも元気がないんだ」
「そうなんだ。それは怖いわね」
口ではそう言うがさほど怯えた様子もなく、女は淡々と肉料理を口の中に放り込んでいった。
少年は段々とこの女の怪しさに首を傾げつつある。奇妙な女なのだ。
大して目新しいものも無い、埃っぽい田舎町のここでは旅行客自体が珍しい。しかし、女の格好は旅行客というふうでもない。
上から下までフォーマルなパンツスーツに身を包んでいる。まるでばりばり仕事を手掛けている新進気鋭のビジネスウーマンみたい。
綺麗な女だが、棒きれみたいに細いネクタイも無地で、全体的に飾り気が無い。せいぜい耳のピアスくらいだ。
トランクひとつ手に提げてバスから降りてきた女と少年が出会ったのはまったくの偶然だった。たまたま女が道を訪ねてきたのだ。
あの人懐こそうな、それでいて今から悪戯を仕掛けようとする子供のような、そんな人好きのする明るさで。
「今更だけどさ。あんた何者なの? こんな田舎に何の用で来たの?」
「アタシ? ああ、アタシはこういう者なのよ」
そう言って女は襟に指を突っ込んで首元を探ると、ネックレスを取り出した。
銀の十字架。女自身の飾り気の無さとは違い、華美にならない程度に細やかな彫金を施された高価なものと素人目にも見て取れた。
スーツからは連想しにくい意外な職種だが、それを見せられれば少年でもある程度は察しが付く。
「なに。あんた教会の人? ヌーノ爺さんに会いに来たの?」
「そそ、そんなところ。新しく赴任しに来たってわけじゃないんだけどね~。ちょっと御用があって、ね」
「ふぅん。こんな時に災難だね」
「そうでもないわ。よくあることだし。慣れっこ慣れっこ」
またよく分からないことを言う。気づけば料理は粗方片付いてしまっていて、女はグラスの中のワインをきゅっと飲み干している。
いよいよ満腹だい、ごちそうさまと太平楽に唱えた女は、ふと少年の方をちらりと見つめてこんなことを聞いてきた。
「………それにしても、なんとも出鱈目なことになってるのね。
この街から離れたいと思わない?キミは怖くないの?次に攫われるのは自分だとか、考えたりしない?」
「そりゃ怖いよ。怖いけど………うちもまわりも、ここらへんはそう裕福じゃないし年寄りばっかりだ。
怖いからって引っ越すなんて出来るやつはそんなに多くないよ。それに………」
少年はそこで一度言葉を切り、視線を手元へと反らした。
少年を見つめる女の視線が、あんまりにも真っ直ぐ過ぎたから。湖の一番深いところまで見通そうとするような、穏やかだけれど鋭い視線だった。
けれど一度逸らした目を再度戻し、はっきりと女を見つめて言った。
「………それに、俺はこの街がなんだかんだで好きだ。
アンタみたいなよその人からすりゃなんにも無いところかもしれないけれど、それでも俺の故郷だ。
父さんは街一番の漁師で色んな店に魚を届けてるし、母さんは誰よりも料理が上手い。近所はみんないい人たちだし、綺麗な海や野原だってある。
ちょっと騒ぎが起きたくらいで見捨てて逃げ出すなんて気に入らないじゃないか。
あと、な………」
「………」
「俺の………幼馴染が、ルシアも行方不明になってるんだ………。きっと見つかると信じて俺は待っていてやりたいんだ。
畜生、俺にもっと力があったらな。凄く強ければ犯人を捕まえてやるし、金持ちならたくさん金を警察にやってみんなを守ってもらいたい。
でも警察だってここより行方不明の人間が多い隣町の方で躍起になってるし、田舎のここにまで全力を尽くしちゃくれないんだ………」
「………ふぅん、そっかぁ」
少年の心の奥底から出たような言葉に一度深く頷いた女はやおら席から立ち上がった。
釣り銭取っておいて、と店主に言って紙幣を机の上に重ねて置いた女は、まだ座ったままの少年に向かって最後の問いをした。
後になって少年は回想する。───その時の女の微笑み。凪いでいるけれど決して揺るがないそれ。
既視感を覚えた先は、この街の教会に据えられている聖マリア像のそれだった。
「もし。もしだよ? 万が一にも、悪いことをしてるやつかやつらをやっつけられる人がいて………。キミならその人になんて言う?」
「そんなの決まってるじゃないか」
きっぱりと少年は言った。
「───助けて! 俺に出来ることならなんだってするから! ………って。そう言うに決まってる」
それは素面のその少年なら恥ずかしくて誰にも言えない台詞だったかもしれない。
けれどごく当たり前にこの街を愛し、ごく当たり前に仄かに想いを寄せている幼馴染の無事を祈っている少年の口からは、自然と臆面なく零れ出た言葉だった。
その無垢な言葉は、そしてそう───何故か、その女にはそう言っておかなければならない気がしたのだ。
瞬間、その女はにっこりと破顔した。
スペインの熱い太陽にも負けない、きらきらと輝く陽の気の笑顔だった。
「よし、承った! 後はこのナナにお任せあれ!」
それじゃ用意があるから、じゃーねー、と女はつむじ風のように店から出ていってしまう。
後に残されたのはぽかんとする店員と、ぽかんとする他の客と、ぽかんとする少年だけだった。
女が少年に奢ったレモネードの氷はとっくに溶けきって、グラスはびっしりと汗をかいていた。
シスター・フラムはようやく訊ねた。
「で、どうだったのですか?」
「ルシアちゃんのこと? 駄目だったよ。連れ去られたのが二週間も前ではね。食屍鬼にならないよう処置するのがアタシに出来る関の山」
空港の外れ。まばらに人が道を行き交うのを眺めながら、ナナは紫煙を青空へ向けて吐き出した。
こじんまりとした喫煙スペースに相席しながらフラムは隣で煙草を吸うナナをちらりと見遣る。表情に目立った憂いなどは見受けられない。
聞いたのはどちらかといえばターゲットとなっていた死徒のことだったのだが、ナナからすればそちらは問題にもならないらしい。
実際、彼女にとっては大したことではなかったのだろう。先行したナナは後続の聖堂騎士たちを待つまでもなくあっさりと死徒を討ってしまっていたという話だった。
フラムは時々このナナという信徒が遠い存在に見える。
正式外典コルネリオに選ばれた、聖堂教会屈指のドラクルアンカー。その実力、埋葬機関にも引けを取らないと謳われる『白光の織り手』。『虹霓騎士』。
二つ名なんて挙げればキリが無い。死徒の撃破数はレコード持ち。文句なしに聖堂騎士の中で最強の存在だろう。
それでも───それでも、救えないものはある。
死者を生者として今を生きる生者の元へは返してやれないように。
立ち行かぬことをひっくり返すことなど、この聖堂騎士にも出来はしない。
「残念だよ。とてもね」
「………あなたでも救えなかったものを惜しむ気持ちは持ち合わせているのですね」
「あのね。シスター・フラムはアタシのことを何だと思ってるのかな?
ひょっとしたら、何かの間違いでここに来るのが二週間早ければその子を助けられたかもしれない。そんな妄想くらいアタシだってするわよ。
でもね。ニンゲンがニンゲンを救うなんて、そんな思い込みは本来は烏滸がましい行いなんだ」
ナナが指に挟んでいた煙草を静かに咥えた。すう、と吸われることで煙草の先端がめりめりと燃え尽きていく。
漂っていく煙の筋は、いつかアーカイブで見た東洋の儀式における送り火のそれと重なって見えた。
「誰かを救うということは、誰かを救わないということ。
この二週間が仮に前倒しされていたら、その前借りされた二週間によって平穏無事にあったはずの誰かが失われていたことでしょう。
正しきものも、間違っているものも、それら全ての衆中を救うなんてそんな大業を成し遂げなさるのは我らが主のみの御業よ。
誰かを救おうとそう志した時点で誰かを救わないという不誠実が発生しているのがアタシたちの宿業なの。特に、アタシみたいに半端に力を持ったヤツはね。
だから。人が救えるのはただひとり。自分自身だけよ。彼は自分自身を救うためにアタシを輪の中に招き入れた。
アタシはその輪の中で全力を尽くした。後にその結果が残っただけ。それだけのことなのよ」
淡々と、まるで遠い昔に心へ刻んだ言葉を復唱するかのように綴られたナナの言葉をフラムはただじっと黙って聞いた。
ナンシー・ディッセンバー。聖堂騎士にして、その出生の過去を誰も知らない名無しのナナ。
まるで自分をただ力を振るうための装置のように規定するに至るまで、どのような道筋があったのだろう。
フラムには分からない。分からないので、ナナの言葉を額面通り受け取ることにした。
「………では、私も私自身を救ってよろしいでしょうか」
「うん? え、いいじゃないの? 唐突でびっくりしたけど」
「分かりました。では」
フラムは修道服の内側に忍ばせてある十字架を片手で押さえ、開いている手で十字を切った。
「アーメン」
「………」
その祈りの聖句が何に向けてのものなのか。
あるいは、誰に向けてのものだったのか。
ナナは問わなかった。代わりに、その僅かな鎮魂の時間に付き合ってくれた。
さて、と彼女が再び言葉を発したのは、フラムが伏せた瞳が開かれるのとまったく同じタイミングだった。
「次の任地はどこだったっけ? シスター・フラム」
「日本の地方都市ですね。シティ・ヨルミだとかいう。
今回は少数精鋭とのことで、聖堂騎士団から派遣されるのは我々を含めごく僅かです。代わりに代行者のお歴々が向かわれると」
「うぇ~、アイツらか~。やりにくいな、アタシのことあんまり好きじゃないみたいなんだよね~」
「それはそうでしょう。聖堂騎士でありながら代行者のように単独で振る舞われるナナ様を快く思われる代行者の方々などそうはいないのでは?」
「………前から思ってたけど、フラムちゃんはアタシに対して結構辛辣だよねぇ」
「敬ってもらいたいなら敬われるような行いをしてからにしてください、騎士ディッセンバー」
意図的に冷たくそう告げ、フラムは喫煙時間は終わりだとばかりに空港の発着口へとすたすたと歩き出す。
待ってよ~、と情けない声が背中にかかるが、煙草の吸い残しを惜しむナナのことなど気にかけるつもりは微塵もフラムには無かったのだった。