②
「………よし、こんなものか」
墓石についた水滴をしっかりと布巾で拭い、俺は額に浮かんだ玉の汗を拭った。
もう7月。こうして陽の光を浴びながら外で作業をしていればすっかり汗だくだ。帰ったらいの一番にシャワーを浴びよう。
ふと涼風が吹き抜け、俺はその風の行方を追うようにして後ろへ振り返った。
都立土夏霊園は新都の山の手にある。流姉さんが務めている土夏総合病院よりも更に高いところだ。
登ってくるのはやや骨だが、お陰でここからは土夏市とその向こうに広がる大洋を一望できる。8月の花火大会もここからならよく見えるくらいなのだ。
きっとこの墓地に眠る人々もこんなロケーションならそう悪い気分ではないと信じたい。それは目の前の墓に眠る彼らも例外ではない。
再び俺は墓前へ向き直った。刻まれている名前は『十影典世』と『十影静留』。
写真でしか顔を知らない俺の両親だった。
墓石の下の遺骨は静留―――母さんの分しかない。典世―――父さんは18年前の大火災で被災して遺体は行方不明なのだそうだ。
この霊園にはそうしたように土夏市大火災の犠牲者が数多く眠っている。
このあたりの一角は当時急造されたスペースだから、周囲のほとんどは大火災に関係する故人たちだろう。
汚れた布巾や樒の長さを整えるための鉄鋏、抜いた雑草を入れたゴミ袋などを手早くリュックサックへ片付ける。
ここの管理者は丁寧な仕事をする人で、誰も訪れずとも霊園の墓ひとつひとつの手入れを欠かさない好人物だが、だからといって俺は頼り切る気にはなれなかった。
だって、俺以外にこの墓へ訪れる人は誰もいないのだ。こうして定期的に参りにくることは俺にとって数少ない両親との接点だった。
「………」
線香も既に焚き、後は帰るだけという段階でありながら、俺は墓の前へとしゃがみ込む。
日光で熱せられた墓石は触れれば火にかけたフライパンのように熱いが、それでも俺は両親の名前が刻まれた御影石を掌で撫でた。
ふたりは何も言ってくれない。ひどく冷たい手触りがした。
それが何の意味もない行為と知っていながら、こうしてここにやってくるといつも俺はつい長居をしてしまう。
「………俺は、あなたたちの命を奪ってでも生まれ落ちる意味のある命だったのかな………」
俺の生命には高い価値がない。負債ばかりがいくらでも積み重なっていく。
何度も名前も知らない他人に救われてきた。病院のベッドの上で、ただ寝転がっているだけで簡単に消えかける軽々しすぎる命。
誰かに死にものぐるいで淵から引き摺りあげてもらえなければ、俺は今日まで生きてくることすら難しかった。
手始めに両親の命を奪い、その上で数多の懸命な献身がなければ呼吸もままならないとは、なんて罪深い生物なのだろう。
返せないほどの借りを作り続けるマイナスの半生にあって、多少プラスを積み重ねたところで何になるというんだ。
まずはマイナスを無くすところからと流姉さんの反対を押し切り、容態が多少良くなった中学1年の時両親が住んでいた洋館で一人暮らしを初めて、はや5年。
その間、自分をどうにか保つことに精一杯で何ら借りを返せている気がしない。
病床の上でちょっとしたことですぐ死に瀕していた頃と一体何が変えられただろう。
早く独り立ちしたいけれど、今のこの状態では自分のことを自分で面倒を見た上で誰かのためにあることが出来る人間になるなんて夢のまた夢だった。
「分からないよ。どうすれば俺はあなたたちに報いることが出来るんだ。
………俺にどんな生き方が出来るっていうんだ。………俺には分からないよ」
じりじりと照りつける太陽。山の中から響いてくる鳥の鳴き声。墓石に触れた手へわずかに力が籠もる。
身動ぎでかさりと音がしたのは、胸ポケットに入れたまま忘れていた押し花の栞だった。