仏道の『阿頼耶識システム』

学術論文(仏教学) / 9

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縁起思想における人間(私) 田中典彦
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpm/63/3/63_63.3_202/_pdf

1.諸行無常(sabbe san・kha-ra- anicca- , anitya-sarvasam・ska-rah・)
 諸行とは「造作されてあるもの,造られたものとしてあるもの」という意味である.造作されてあるもとは,縁起の在り方をするもののことであり,この世界のすべての現象存在を意味している.したがって諸行無常とは「およそ存在するものは皆,生滅変化するものである」「およそ存在するものは皆移り変わりながらある」ということである.これは自明のことであるから,証明は不要であるとされている.無常は,滅のほうだけが強く意識されるが,一方でものが現れてくるということも意味していることに注意しておくことが大事である.

 すべては移り変わりながらあるから,当然その中に移り変わらない本質といったようなものは認められない.したがって,諸法無我(sabbedhamma- anatta-, ana-tmanah・ sarvadharma-h・「お)よそ存在するものは皆,我(a-tman)といわれるような生滅変化を離れた永遠不滅の存在とされる実体や本体をもっているものではない」となる.釈尊当時のインド思想の中で,移り変わらないものとしてとらえられていた代表格にアートマンがある.いわゆる「我(が)」と訳されるものである.仏教は,「我」という言葉を
使って,移り変わらないものはないということを再度,「無我」という言葉でそれを示していると理解できるであろう.

 ゴータマ・シッダールタは法を悟って仏となった.法とは縁起であるとされている.「如来が世に出ても,あるいは如来が世に出なくても,この理法は定まり,法として定まり,法として確定している.それは相依性ということである.…(SN ⅱ25.17‒23)」と説かれ,縁起の理法は「永遠の真理」であると理解されている.

 そして「縁起を見る者は法を見る,法を見る者は縁起を見る」「縁起を見る者は法を見る,法を見る者はわれ(仏)を見る」と説かれている.法とはもともとブッダの悟りそのものであって言説を超えたもの,つまりわれわれの分別を超えたものであるが,「私が悟ったのは縁起なのだ」と言葉化して説かれたのである.この真理に基づく教えであるとの認識から教えが法であるとされているのである.

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