仏道の『阿頼耶識システム』

学術論文(仏教学) / 7

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法介 2023/09/29 (金) 10:23:38 修正
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    量子論と仏教 後藤 蔚
    https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7982.pdf

    さて、説一切有部は、法は一刹那の存在ではあるが、それは「有る」のである、と主張する。この派が「説一切有、部」と呼ばれるのはそのためである。同じ小乗でも、経量部は、法は「仮」であると見た。さらに、大乗の中観派では、法は「空」であると説く。それが1で見たナーガールジュナの主張である。-144-

    ・現行とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識(まなしき)の七識が現に生起して活動したところを云う。
    ・末那識とは、阿頼耶識を対象に、それが「自分」であるとして執着し続ける心である。
    ・阿頼耶識とは、蔵識とも呼ばれるように、種子を内蔵する場である。

     さて、現行は、第八の識である阿頼耶識に種子を熏習する。そうして熏習された種子は現行を生み、あるいは自らと同じ種子を阿頼耶識に生む。このように、現行と種子とは、「現行熏種子」、「種子生現行」、「種子生種子」という動的関係にあり、そうした関係を通じて、若い太郎は、太郎として、成長し、老いて行く。-145-

    こうした見方を唯識説のそれと較べてみよう。「唯識」とは単に「ただ主観的な認識作用のみがある」という意味ではなく、「客観と主観との両者を含めたあらゆる存在はすべて、ただ表されたもの、知られたものに過ぎない」という意味である。唯識説は、あらゆる存在は認識された姿として立ち現れているだけであって、認識された姿の背後に実体的に何かが存在すると予想してはならない、と主張する。「現実に認められる外的現象と内的精神とはすべて、何か或る根源的なものによって表されたものに過ぎない」というのが唯識説の根本教義であり、この根源的なものが「阿頼耶識」に他ならない。-149-

    (モノをモノとして見るのではなく、そのモノのストーリーとして見ていく by 法介)

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    縁起思想における人間(私) 田中典彦
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpm/63/3/63_63.3_202/_pdf

    1.諸行無常(sabbe san・kha-ra- anicca- , anitya-sarvasam・ska-rah・)
     諸行とは「造作されてあるもの,造られたものとしてあるもの」という意味である.造作されてあるもとは,縁起の在り方をするもののことであり,この世界のすべての現象存在を意味している.したがって諸行無常とは「およそ存在するものは皆,生滅変化するものである」「およそ存在するものは皆移り変わりながらある」ということである.これは自明のことであるから,証明は不要であるとされている.無常は,滅のほうだけが強く意識されるが,一方でものが現れてくるということも意味していることに注意しておくことが大事である.

     すべては移り変わりながらあるから,当然その中に移り変わらない本質といったようなものは認められない.したがって,諸法無我(sabbedhamma- anatta-, ana-tmanah・ sarvadharma-h・「お)よそ存在するものは皆,我(a-tman)といわれるような生滅変化を離れた永遠不滅の存在とされる実体や本体をもっているものではない」となる.釈尊当時のインド思想の中で,移り変わらないものとしてとらえられていた代表格にアートマンがある.いわゆる「我(が)」と訳されるものである.仏教は,「我」という言葉を
    使って,移り変わらないものはないということを再度,「無我」という言葉でそれを示していると理解できるであろう.

     ゴータマ・シッダールタは法を悟って仏となった.法とは縁起であるとされている.「如来が世に出ても,あるいは如来が世に出なくても,この理法は定まり,法として定まり,法として確定している.それは相依性ということである.…(SN ⅱ25.17‒23)」と説かれ,縁起の理法は「永遠の真理」であると理解されている.

     そして「縁起を見る者は法を見る,法を見る者は縁起を見る」「縁起を見る者は法を見る,法を見る者はわれ(仏)を見る」と説かれている.法とはもともとブッダの悟りそのものであって言説を超えたもの,つまりわれわれの分別を超えたものであるが,「私が悟ったのは縁起なのだ」と言葉化して説かれたのである.この真理に基づく教えであるとの認識から教えが法であるとされているのである.