【パーリ仏典では】
『小空経』(Cūḷasuññata Sutta)
パーリ仏典の『中部』(Majjhima Nikāya, 中部経典)の第121経に収録されています。この経典では、比丘(僧侶)が心を落ち着け、段階的に空の境地を体験していく瞑想のプロセスが説明されています。
『大空経』(Mahāsuññata Sutta)
パーリ仏典の『中部』(Majjhima Nikāya, 中部経典)の第122経に収録されています。この経典では、僧侶たちに対して「空」を中心とした生活態度と瞑想の実践を説いています。特に「多くの人々と交わることを避け、簡素であるべき」という教えが強調されています。
【漢訳経典では】
『小空経』
『中阿含経』(T26, 中阿含)第190経「小空経」として収録されています。内容は、パーリ原典とほぼ一致しており、「空性」を瞑想を通じて段階的に理解する教えが中心です。
『大空経』
『中阿含経』(T26, 中阿含)第191経「大空経」として収録されています。こちらもパーリ原典に基づき、僧侶の実践と「空性」に基づいた生き方を強調しています。
この知恵袋宗教カテには、
大学で生徒さん達に学問を教えられておられる
教授さん達も居られます。
実際に、前に立てました質問にもその様に自ら言われておられた回答者さんがお見えでしたが、わたしとのやり取りにおいて、体裁が悪くなったのか投稿を削除されて去っていかれました。
わたしはここで、学者さんが語る仏教は、客観に視点を置いて捉えた仏教で、それは凡夫視点で語る仏教でしかないと主張させて頂いております。
(※ 中には実際に僧侶の立場で学術研究なされておられる学者さんも居られます)
それに対し私は、物心ついた時から教学にたけた父から仏教の法理法門を叩きこまれ、自身の人生に起こり得る出来事を全て己心の一法で受け止めよと、徹底した仏教思想で育てられ、日蓮さんのお言葉どおりに、
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。
と、信心実践に励んできた仏道者の立場で意見を述べさせて頂いております。
学者さんは、自身の研究内容の正当性を客観性を以て示さなければなりません。
そこで論じられる仏教は、先日お話しました世間一般水準であるところの世俗の真理、即ち仮諦でしかありません。
本当の仏教と言いますのは、その客観から離れ、主観からも離れ、
人間の「主観と客観」から完全に離れたところに視点が置かれます。
それが空観と呼ばれる仏独特の世界観です。
その世界観に意識がある人が語る仏教と、
凡夫の仮観に意識がある人が語る仏教とが
同じである訳がありません。
関わる人が変われば
仏教のあり方もまた
変って来ます。
それが縁起というものです。
戦国時代、お侍さん達は
戦の場において
まずは「是が氏は!」と自らの素性を声高らかに発したものです。
わたしが問われて、自らの素性をお伝えしましても
ご自身の素性をあかそうとされない質問者さんも前スレに居られました。
そういう卑屈な者に限って
自分の事は棚に上げ
相手の落ち度を揚げ足を取るかのように
得意げに語って去って行かれます。
もしかしてあなたも
仏教にたずさわっておられる学者さんのお一人さんですか。
そういう学者さん達に
耳の穴をかっぽじいて
よ~~~~~~く聞いて頂きたいお話を
今日はさせて頂きます。
学者視点で気づけていない
仏法者視点で気づいた
とても重要なお話です。
お話を聞かれて意見を述べられたい方は、
正々堂々と「我が氏は、、、」とまずご自身の仏教的立ち位置を
潔く名乗られてから回答覧にてご投稿くだされまし。
日本男児であるならば。
では、お話に入ります。
今日お話する内容は、
お釈迦さまも唯識を説かれていた
というお話です。
お釈迦さまが初期仏典の般舟三昧(179年)の中で「三界唯心」という言葉を示されていた事は既に知られております。
十地経でもこの「三界唯心」の一文は出てきますが、その十地経よりも古いとされる般舟三昧です。
しかし唯識思想の法理的原点は、その十地経よりも新しい『解深密経』における認識論的側面からの観念論的な表現に由来すると学界では考えられておられるようです。
が、
しかし
お釈迦さまは『阿含経典』において既に唯識を法理的に示されておられます。
学者さん達がその事に
未だ気づけていないだけの話です。