【パーリ仏典では】
『小空経』(Cūḷasuññata Sutta)
パーリ仏典の『中部』(Majjhima Nikāya, 中部経典)の第121経に収録されています。この経典では、比丘(僧侶)が心を落ち着け、段階的に空の境地を体験していく瞑想のプロセスが説明されています。
『大空経』(Mahāsuññata Sutta)
パーリ仏典の『中部』(Majjhima Nikāya, 中部経典)の第122経に収録されています。この経典では、僧侶たちに対して「空」を中心とした生活態度と瞑想の実践を説いています。特に「多くの人々と交わることを避け、簡素であるべき」という教えが強調されています。
【漢訳経典では】
『小空経』
『中阿含経』(T26, 中阿含)第190経「小空経」として収録されています。内容は、パーリ原典とほぼ一致しており、「空性」を瞑想を通じて段階的に理解する教えが中心です。
『大空経』
『中阿含経』(T26, 中阿含)第191経「大空経」として収録されています。こちらもパーリ原典に基づき、僧侶の実践と「空性」に基づいた生き方を強調しています。
その手掛かりとなるのが今回お話しております
『小空経』と『大空経』の二つの空を説く
『阿含経典』とパーリ仏典です。
昨日は『小空経』で説かれている空が、
時間軸の中で起こる此縁性縁起として説かれているというお話をしました。
そこで説かれている空は、「有る無し」の二元論で語られる空でした。
それに対し『大空経』で説かれてる空は、四元論の空です。
四元論という言い方はおかしいのですが、ここでは皆さんやれ一元論や二元論だと科学の次元と仏教の真理諦の違いも分からずにごちゃで次元論を語っておられるようなので、分かりやすくあえて間違った言い方なのですが「四元論」と言わせて頂いております。
正確には三身即一の「非有非空」の空です。
空には「非有非無」の空というのもあります。
「非有非無」の空は、有でもなく無でもない空です。
ここでの空は縁起です。有為の法としての縁起です。
お釈迦さまが初期仏教で示された「中道」がこれにあたります。
有=常見
無=断見
非有非無=中道(空=縁起)
空を空じたところに真如が顕われると言いますが、
この中道としての空を非空とするのが「空を空じたところ」となります。
それが「非有非空」です。
どういう内容かと言いますと、
まず、
実有から完全に離れている事(非有)。
具体的に言いますと、
人間の概念から完全に離れているということになります。
それが「非有」の意味するところです。
では、「非空」はと言いますと、
縁起が起きないという事です。
いわゆる、「無為」という事です。
インド論理学に四句分別というのがありまして、仏教でも心のあり方をこの四句分別を用いて言い表したりもします。
天台の智顗もこれを用いて、
有門
空門
亦有亦空門
非有非空門
という四門の料簡を説いております。
要するに人のこころには「四つの相」があるという事が説かれている訳です。
どこに説かれているかと言いますと
『阿含経典』の中にそれは示されております。
こちらをご覧ください。
『阿含経典』南伝 相応部経典 蘊相応22-58
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70520.html
「五つの要素の四つの変化の相」とありますよね。
五つの要素とは色・受・想・行・識の五蘊のことです。
五つの要素がそれぞれ詳しく紹介されております。
ここで「想」の項目に着目してください。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように想を証知し、・・・その時もはや輪廻などということはありえないのである。
とありますよね。
「・・・その時もはや輪廻などということはありえない」
・・・の時ってどんな時でしょう。