『唯識』の一切法についてのお話です。
こちらのレス813の続きです。 https://talk.jp/boards/psy/1728215918
まー、そこがリダンの面白いところで
わたしは大好きなんですけどね。
どうぞ
ご自由に皆さんで意見なされてください。
結論が出ること自体がおかしな事なんですけどね。
だってそうでしょ。
正しさなんてのは
人それぞれのこころの中にあるものなんです。
自分に自信が持てない人程
他者の共感を求めたりするものです。
わたしは、子供達に次のような事もよく言って聞かせてきました。
自分がどう映るかではない。
自分がどうあるかである。
法華スレでは四依の菩薩を全く無視した、
それぞれの自我によるトークが花咲いておりますが、
トークで真理が導き出せると思っている時点でアウトでしょ。
凡夫が仏教の知識をいくら学んだとて、
その言葉(理解)は自我交じりの漏れ漏れの
有漏の迷いの種子としかなり得ません。
だから、お釈迦さまは
二空(析空と体空)で凡夫の頭の中を空っぽにさせ、
「法空」で凡夫と仏の不二門(而二不二)を別教で説かれたのです。
うだうだ言わずに
やったもん勝ちなんですね仏法って。
だってそうでしょう
覚るのは自我じゃないんです。
声聞・縁覚・菩薩という境涯で覚っていくんです。
真理に暗い(無明)愚かな凡夫が
その三乗の智慧を授かって
菩薩の52位の階位を一段一段
昇り詰めていくのが仏の道です。
三乗の智慧って
どこに保管されていると思っているのやら、、、
それを自我で拾い上げれるとでも
思っているのかな、、、
有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、
有漏で無漏を拾い上げても
それは結局
有漏と化すでしょうに
んな事も分からんから
真理に暗い凡夫って
言われるんですよ。
『唯識三十頌』の解釈は、
安慧(一分説) 難陀(二分説) 陳那(三分説) 護法(四分説)
と、その解釈は分かれます。
護法の解釈が正義とされますが、
その護法が用いた説が
相分・見分・自証分・証自証分の四分説です。
加藤氏の四分説に対する説明文を紹介します。
「自証分」とは、「見分」を自覚する心の働きである。木が相分、それを見ているのが見分である場合、「木を見ている自分」を自覚しているのが「自証分」である。
それでは、「証自証分」とは何か。護法は、さらに心の奥底に第四の自分を想定するのである。すなわち「『<木を見ている自分>を自覚する自分』を自覚する自分」である。こう考えるならば、第五、第六の意識がさらに奥に想定されるのでないかという疑問も出てくるが、『成唯識論』では、その必要性はないとする。それは、「自証分」と「証自証分」との間で、相互に自覚しあうからだと説く。すなわち「見分」と「相分」を従えた「自証分」が、さらに心の奥にある「証自証分」と自覚しあって、認識が完成するとする。
要するに護法の四分説とは、
相分=客観 見分=主観 自証分=第六意識 証自証分=第七末那識
という事になる。
第18偈にも、サティーや麦の主張が間違いである根拠が示されている。
阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。
「識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。」
と明確に述べております。
識の中の種子を顕す=法介主張。--- 〇
種子を持する識=サティー&麦の主張。--- ×
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結論が出ること自体がおかしな事なんですけどね。
だってそうでしょ。
正しさなんてのは
人それぞれのこころの中にあるものなんです。
自分に自信が持てない人程
他者の共感を求めたりするものです。
わたしは、子供達に次のような事もよく言って聞かせてきました。
自分がどう映るかではない。
自分がどうあるかである。
法華スレでは四依の菩薩を全く無視した、
それぞれの自我によるトークが花咲いておりますが、
トークで真理が導き出せると思っている時点でアウトでしょ。
凡夫が仏教の知識をいくら学んだとて、
その言葉(理解)は自我交じりの漏れ漏れの
有漏の迷いの種子としかなり得ません。
だから、お釈迦さまは
二空(析空と体空)で凡夫の頭の中を空っぽにさせ、
「法空」で凡夫と仏の不二門(而二不二)を別教で説かれたのです。
うだうだ言わずに
やったもん勝ちなんですね仏法って。
だってそうでしょう
覚るのは自我じゃないんです。
声聞・縁覚・菩薩という境涯で覚っていくんです。
真理に暗い(無明)愚かな凡夫が
その三乗の智慧を授かって
菩薩の52位の階位を一段一段
昇り詰めていくのが仏の道です。
三乗の智慧って
どこに保管されていると思っているのやら、、、
それを自我で拾い上げれるとでも
思っているのかな、、、
有漏で無漏が引き出せるとでも、、、、
有漏で無漏を拾い上げても
それは結局
有漏と化すでしょうに
んな事も分からんから
真理に暗い凡夫って
言われるんですよ。
『唯識三十頌』の解釈は、
安慧(一分説)
難陀(二分説)
陳那(三分説)
護法(四分説)
と、その解釈は分かれます。
護法の解釈が正義とされますが、
その護法が用いた説が
相分・見分・自証分・証自証分の四分説です。
加藤氏の四分説に対する説明文を紹介します。
「自証分」とは、「見分」を自覚する心の働きである。木が相分、それを見ているのが見分である場合、「木を見ている自分」を自覚しているのが「自証分」である。
それでは、「証自証分」とは何か。護法は、さらに心の奥底に第四の自分を想定するのである。すなわち「『<木を見ている自分>を自覚する自分』を自覚する自分」である。こう考えるならば、第五、第六の意識がさらに奥に想定されるのでないかという疑問も出てくるが、『成唯識論』では、その必要性はないとする。それは、「自証分」と「証自証分」との間で、相互に自覚しあうからだと説く。すなわち「見分」と「相分」を従えた「自証分」が、さらに心の奥にある「証自証分」と自覚しあって、認識が完成するとする。
要するに護法の四分説とは、
相分=客観
見分=主観
自証分=第六意識
証自証分=第七末那識
という事になる。
第18偈にも、サティーや麦の主張が間違いである根拠が示されている。
阿頼耶識の別名である「一切種子識」について『成唯識論』第18偈では次のように云う。
種子識という言は、識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。後に当に説くべきが故に。此の種子の中の種子は余の縁に助け助けられるが故に、即便ち是の如く是の如く転変す。
「識の中の種子を顕す。種子を持する識には非ず。」
と明確に述べております。
識の中の種子を顕す=法介主張。--- 〇
種子を持する識=サティー&麦の主張。--- ×