お釈迦さまは仏教の重要概念である〝空〟を「無我」という角度から説かれました。ですから初期仏教では、「自我」を滅した寂滅の境地を目指します。煩悩を断ち、身も心も無に帰す「灰身滅智」が理想の境地とされました。
仏とは果たしてそのような寂滅の境地を言うのでしょうか。
全てが無であるならばそこには自他の区別は起こりません。いわゆる「無分別」の覚りの境地ですが、自他の分別がない境地にあって他を救いたいという自身の存在があり得るのでしょうか。
実は仏と言えども自我は存在しております。
人間の意識は『唯識』で言えば第六意識となります。五蘊の働きの中の「色・受・想・行・識」の最後の「識」がこの第六表層意識となります。五蘊を全て空じている仏にあってはこの凡夫の表層意識は止滅しています。「人間の意識」は前五識(五つの感覚器官)を対象として起こる意識ですが、その表層の第六意識を空じることで深層の第七意識が意識として顕れてきます。この第七深層意識の事を「末那識」と呼びます。
ここに〝自我意識〟が潜んでおります。
この自我の存在を詳しく解き明かしているのが『唯識』です。
お釈迦様が「無我」を説き、 ---(仮諦)
龍樹が「空」を解き明かし、 ---(空諦)
世親が「唯識」を解明します。---(中諦)
通報 ...