仏道の『阿頼耶識システム』

サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想 / 5

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法介 2023/10/01 (日) 01:39:11

そして崔氏は、この『華厳経』の特徴として次のような内容をあげております。

「入法界品」を除いて、華厳時の説法には他の経典とは異なる顕著な特徴がある。第一に、「仏昇須弥頂品」第九以後は天界を上昇しながら場所が変わっていくが、「その時、世尊は威神力によって、この座から起き上がることなく、須弥山の頂上へ昇り、帝釈の宮中へと向かった」、「その時、世尊は威神力によって、菩提樹と帝釈宮とを離れることなく、夜摩天の宝荘厳殿へ向かった」というセンテンス(文)に見られるとおり、実際には釈尊は正覚を得た菩提樹から少しも動いていないと説明されている点である。第二に、法会の参席者だけでなく説法の主体が大部分、菩薩達であるという点である。ただし菩薩達は「仏陀の神通力を承けて(承佛神力)」三昧に入り、三昧から出た後に法を説く。つまり自身の智慧によって自ら説くのではなく、仏陀の智慧にインスパイア(刺激)され、仏陀の代わりに説法をするのである。このような内容は、華厳時の説法が人間界の日常的な言語伝達方式、つまり肉声を通したものではないということを示唆している。(P.30)

釈迦が正覚して行った説法は人間界の日常的な言語伝達方式、つまり肉声を通したものではなかった事がこの『華厳経』の内容から読み取れます。お釈迦さまは五蘊を空じて正覚しておりますので当然「しゃべる」という行為から離れております。(五蘊皆空

しかし、未だ自己性は備えておりますので説法をします。

これは仏といえども未だ自我を備えもっているという事になります。自我(自己性)が有るから衆生を救いたいという慈悲の心も起こります

仏には未だ自我は意識として備わっております

ここのところが分からない人達は、仏は全ての煩悩を滅しているので自我は無いと思い込みます。そしてそれが「無我」という境地だと勘違いします。そのようにお偉い学者さん達が勘違いし、そういった解説本や仏教用語解説辞書などを世に出し、それをもとに今日ではウィキペディアなどにもその勘違いによる解釈があたかも正しいかのように世の中に弘まってしまってます。

間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16

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