第一回仏典結集はお釈迦さまが入滅されて直ぐに開催されてますが、それぞれの経典が説かれた時期を確定するためには経典が説かれた場所、参席した大衆、周辺の状況、説法の内容等を漏れなく調べなければなりません。こちらの「崔 箕杓 論文」では、そういった事をふまえて次のように論を進めておられます。
https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf
おびただしい数の経典を読解して比較するという作業自体が恐ろしく膨大なものであり、歴史を記録しないインドの風土においてはそもそも歴史的な証拠というものは十分には残っていないので、非常に困難な作業となるであろう。それよりも説法の内容のなかに年齢や年月など具体的な時期を明らかにするセンテンス(文)が存在することが知られているから、それらを根拠とするほうが、量的には多くはないとはいえ客観性が高いと言うことができよう。(P.28)
そういった趣旨で崔氏は、天台教判である、「華厳・鹿苑・方等・法華・涅槃」の経典が説かれた時期によって分類分けされた五時説をまず検証されています。
天台の教判のうち五時説は、経典(群)が説かれたおおよその時期を手がかりとして説法の目的を明らかにしようとするものであり、これに対する理解が確立されれば、膨大な経典を読解し意味を把握するにあたって大きな助けを得ることができる。ただしそのためには、この時期ごとの分類がどのような根拠から成立したものであるのか、妥当性があるのかどうかが問題となるであろう。また分類が妥当であるとしても、その次には各時期ごとの特徴が何であるのかを正確に把握する必要がある。(P.28)
五時の第一はお釈迦さまが正覚された直後に説かれた『華厳経』です。
この経典の説時は冒頭において明らかに記されています。
このように私は聞いた。ある時、仏陀は摩竭提国の寂滅道場におられ、初めて正覚を成し遂げられた。
釈尊が摩竭提国菩提樹下の寂滅道場において初めて正覚を成し遂げた直後に、この経典が説かれたことは明らかである。『華厳経』は場所を移しながら説法がなされている。旧訳である『六十華厳』によれば、最初の「世間浄眼品」から「盧舎那仏品」第二までは正覚を成就したその場で説法がなされ、「如来名号品」第三から「賢首菩薩品」第八までは普光法堂において、文殊菩薩が他の菩薩達と主に「信」について問答するという形式で説法がなされている。「仏昇須弥頂品」第九以後は、仏陀が菩提樹から離れないまま須弥山の頂上の忉利天に昇って「明法品」第十四までの説法がなされるが、この時には法慧菩薩が他の菩薩や帝釈天と問答形式によって十住菩薩の法を説く。「仏昇夜摩天宮自在品」第十五から「菩薩十無尽蔵品」第十八までは、さらに夜摩天に昇って功徳林菩薩が十行菩薩の法を説き、「如来昇兜率天宮一切宝殿品」第十九から「金剛幢菩薩十廻向品」第二十一までは、兜率天において金剛幢菩薩が十廻向地に位する菩薩の修行内容を説く。さらに仏陀が欲界の頂上である他化自在天に昇った後、金剛蔵菩薩が十地菩薩の法を説き、普賢菩薩等が菩薩の十種の神通等を説く部分が、「十地品」第二十二から「宝王如来性起品」第三十二までである。「離世間品」第三十三の説法の場所は、再び普光法堂である。善財童子が五十三の善知識と順番に出会い、法界に入っていく過程が旅行記のように描かれている最後の「入法界品」第三十四は、それ以前の諸品とは異なって仏陀が舎衛国の給孤独園に住しており、声聞衆もその場にいる。『六十華厳』ではこのように七つの場所において八つの法会が開かれるので、『華厳経』の七処八会の説法と呼ぶのである。(P.29-P.30)
こちらで三界図が紹介されておりますのでご参照ください。