ヴィパッサナー瞑想は本来、五蘊を空じて仏の空観へ入って仏の智慧を観じ取っていく瞑想なので、その前提として五蘊を空じる(止滅させる)サマタ瞑想が行われるべきものなのですが、上座部でこの二つの瞑想を別々に行ったりします。なぜかと言いますと、サマタ瞑想は感覚器官を全て停止させる瞑想であるのに対してヴィパッサナー瞑想は、対象をつぶさに観察することで気づきを得る瞑想と上座部では考えられております。この場合、二つの瞑想は相反する瞑想となります。観察するには感覚器官の働き(五蘊の働き)が必要不可欠となりますので。
これは初期仏教では未だ深層意識まで詳しく解き明かされていなかったがゆえの誤った瞑想の捉え方です。
初期仏典である「パーリ仏典」には「止」と「観」について次のように書かれております。
比丘たちよ、「止」を修習するとどんな利益を受けるのか。心が修習される。心を修習するとどんな利益を受けるのか。およそ貧が断じられる。比丘たちよ、「観」を修習するとどんな利益を受けるのか。慧が修習される。慧を修習するとどんな利益を受けるのか。およそ無明が断じられる。比丘たちよ、貧に染汚された心は解脱せず、無明に染汚された慧は修習されない。比丘たちよ、実に、貧を離れることから心解脱があり、無明を離れることから慧解脱がある。(AN. I, P.61.)
ここで注目して欲しいのは「慧」即ち智慧を修習すれば無明が断じらると申しております。凡夫の心というのは迷いの心でありそれを「元品の無明」といいます。迷いの凡夫の心から「仏の智慧」を観じとる事はまずもってあり得ません。そして「無明を離れることから慧解脱がある」とあります通り、凡夫の心(第六意識)を離れなくては仏の智慧を観じ得ません。
しかし、残念ながら小乗仏教では仏の空観へ入る術が未だ解明されていませんでした。
比丘たちよ、何を証知して諸法は断じられるべきか。(中略) 無明と有愛である。(中略)何を証知して諸法は現証されるべきか。明と解脱である。何を証知して諸法は修習されるべきか。止と観である。(SN. V, P.52.)
諸法を修習するには止と観、即ち「止観」による瞑想法に依るしかないんです。