仏道の『阿頼耶識システム』

サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想 / 11

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法介 2023/10/01 (日) 17:56:46

この事を日蓮大聖人が『四信五品抄』の中で詳しく述べられておりますので現代語訳でご紹介致します。

質問する。末法時代に入って、初めて覚りを求める心を起こした修行者は、例外なく円教の戒・定・慧の三学を全て実践する必要があるのか。

答える、このことは、重要なことであるので、経文と考え合わせ、必要な個所を取り出して、あなたに送る。すなわち、五品のうち初品・第二品・第三品では、仏は紛れもなく戒と成という二つのものを制止して、修行の内容をひたすら慧も実践できなければ、信を慧の代わりとし、信という一字を究極としている。不信は一闡堤や謗法の原因であるのに対し、信は慧の原因であり、名字即の位である。

天台大師は次のように述べている。「相似即の利益を得た場合、一度死んで次に生まれても忘れることはない。名字即や観行即の利益では、次に生まれた時に、忘れてしまうが、忘れない場合もある。忘れた者も、正しく導いてくれる者に遭遇すれば、過去世の善い行いが再び効力を発揮する。もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心を失ってしまう」と。

はばかりながら、少し前の天台宗の慈覚大師円仁・智証大師円珍のお二人も、天台大師・伝教大師という正しく導いてくれる人に背いて、善無畏や不空などといった悪へと導く者に心が移ったのであろう。釈尊の時代から遠く離れた現代の学者は、慧心僧都源信の『往生要集』の序分にたぶらかされて、もともとあった法華経を信じる心を失い、阿弥陀仏を信じる一時的な教えへと入っていく。「大乗から退き、小乗を取る」と言われる者たちであった。

過去世のことから推しはかると、未来には無量劫にわたって、三悪道に生まれることになるだろう。「もし悪へと導く者に遭遇すれば、もともとあった善の心をうしなってしまう」とは、このことである。

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