「六因説」について 兵藤 一夫
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/印度学仏教学研究/印度學佛教學研究第33巻第2号/Vol.33 , No.2(1985)078兵藤 一夫「「六因説」について -特に「相応因」と「倶有因」に関して-」.pdf
有部の因縁論の中、「四縁説」は識(心)の生起に関する縁の分析に由来し、そこには普遍的な性格があったため、大乗も含めた他の学派にも広く採用されるところとなった。これに対し、「六因説」は有部の独特な法の理論を北具尽としており、有部的な色彩の濃いもので、当然ながら有部独自の学説という域に止ってしまった。中でも特に、「相応因」と「倶有因」の二つはその有部的色彩が最も顕著なものである。したがって、有部の「六因説」の性格を考察する場合、この二因は格好の素材となる。また、この二因に関しては、有部内部においてその理解の仕方にいくらかの違いがあるようである。それは因の成立条件に関する問題であって、「同一果」によるのか「互為果」によるのかという古来からの問題に帰着する。そこで、この小論では「相応因」と「倶有因」の内容・性格を、有部の法の理論と関連させながら検討し、最後に「同一果」と「互為果」についていささか言及してみたい。
六因の中、「相応因」と「倶有因」は倶生法に対して適用される因である。すなわち、この二因は、ある生起した法(果なる法)と倶生した諸法の中で、果なる法と密接不離な関係にある法に対して設定されたもので、いわゆる同時的因果関係を表わしたものである。このように、有部が同時的因果関係を主張することは有部の因果論の最大の特徴の一つであるが、「因は果よりも先に存在する」という世間一般の常識に逆らうことで諮り、この点が『倶舎論』や『順正理論』において他の学派から批判されるところである。しかし、有部の法の理論からすれば、この同時的因果関係の是認は必然的な帰結である。
有部の法の理論のもう一つの特徴は、実有法の分析の徹底化である。有部の考え方では、実有法は自性を有したものである。一つの実有法に複数の自性は認められないことにより、その法に少しでも別な性質が混っていたら、それを分離して別立するという厳格な態度が見られる。しかし、この態度は反面では世間的な諸存在の有機的統合性を破壊する。例えば、有情の心的活動を心王と諸々の心所なる別法に分解することは、心が全体として有している有機的な機能を損う。また、有為法をその法としての自性と有為として
の自性(有為の四相たる生・住・異・滅)に分解することは、刹那滅性という有為法個有のダイナミックな本性を奪い去ることになる。このように、法の分析を徹底的に押し進めて、法をより基本的な要素的存在へと分解していくと、それら分解された法の有機的な性質はますます薄められてくる。
五位七十五法説の持つこのような傾向を修正し、一切の有為的存在の有機的統合性を回復させる一助として利用されるのが、「諸法の倶生」或いは「相応」、「倶有(倶生)」という概念である。この中、「相応」とは心と心所聞の有機的統合を表示し、「倶有(倶生)」とはそれ以外の諸法間の有機的統合、例えば、有為法と有為の四相、色法の八事倶生(四大と(2)色・香・味・触)など、を表示する。