仏道の『阿頼耶識システム』

声聞地(十地経における声聞の境地)

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『声聞地 』の成立背景をめぐる一考察 阿部 貴子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/54/0/54_KJ00009324841/_pdf/-char/ja

(プリント下部 No.242 より)

cakSub pratS’tya rapEpi cotpadyate cak §urvijfi 五nam , cakQurvijfi …inanan・taram utpadyate vikalpakaIp manovijfianam ,yena vikalpakena ma −novijfianena priyarロpe §u rUpe §u sarprajyate apriyarnpe §u rnpe §u vya −padyate  / (Sbh 研究会 , pp .102−103)

眼と色とに縁って眼識が生じ、眼識の直後に分別の意識が生ずる。その分別の意識によって、魅惑的な様相の色に貪着し、魅惑的でない様相の色に対しては瞋恚をおこす。
ここでは傍線部のように、根と境に縁って識が生じ、その後に分別の意識が生ずることが暗示されている。 こうした根・境・識をめぐる議論は、『倶舎論』などの阿毘達磨論書に提示されている。議論は『雑阿含経』の「眼色に縁りて眼識生ずる。三事和合にして触なり」に由来するが、この解釈の相違について加藤(1989)は、経量部の祖師とされるシュリーラータは説一切部と異なる解釈を展開しているという。説一切有部は、眼等の根と色等の境があれば同時に眼等の識が生じ、心所である受・想・思もまたそれと同一刹那 に生起するといういわゆる「倶生因」の立場をとるが、シュリーラータは第一刹那に根と境があり、第二刹那に識が生じ、第三から第五刹那には、受・想・思と順次に認識が起こるという次第生起をとる 13)。世親 はしばしば経量部の説に賛成するが、この認識の議論については有部の同一刹那生起説をとり、「縁りて (pratitya)」という絶対分詞は時間的な前後関係を表すものではなく、「口をあけて寝る」というように 状態の同時性をも表すと説明する 14)。また受・想・思も同一刹那に生ずると主張する 15)。

法介
作成: 2023/09/13 (水) 21:27:41
最終更新: 2023/09/25 (月) 07:40:39
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法介 2023/09/13 (水) 21:45:50 修正

『法蘊足論』の四無量定と勝解:『声聞地』との関連性から 阿部 貴子
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/71/0/71_0013/_pdf/-char/ja

(プリント下部 No.21-22)

  1. 四静慮との関係と勝解作意

 次に『法蘊足論』は iii)「慈心定と四静慮」において、慈心定と静慮の関係を述べている。上のような世間的な勝解の段階では、まだ欲界~第二静慮に過ぎないが、第三静慮を得れば、慈心定と認められるとして以下のように述べる。

『法蘊足論』486a9–10:若し此の生有り、近・曾・現に第三静慮に入り、彼の楽相を取りて、是の如くの心を起こす。28

 しかし Vibhaṅga では四無量定を初静慮~第四静慮と捉え、阿毘達磨論書においては四種をそれぞれ別の静慮に配当する。すなわち『婆沙論』は、慈・悲・捨無量定を欲界・未至定・中間静慮・四静慮の七地とし、喜無量定を欲界・初二静慮と見なす 29。『倶舎論』では慈・悲・捨無量定を未至定・中間静慮・四静慮とし、喜無量定を喜受のあることから初二静慮と定める 30。これは第三静慮において楽はあるが喜は無いという阿毘達磨の教理によるものである。

一方『声聞地』「第二瑜伽処」では、上述の経典を解説しつつ以下のように示している。

ŚrBh II, 70–71: yat punar āha (3)“vipulena mahadgatenāpramāṇene”ty anena
mṛdumadhyādhimātrasya sukhasyopasaṃhāra ākhyātaḥ kāmāvacarasya,
prathamadvitīyadhyānabhūmikasya vā, tṛtīyadhyānabhūmikasya vā /

さらにまた、(3)「広く、大きく、無量なることによって」と説かれるこれによって、僅かなもの、中程度のもの、最上のものである、欲界、あるいは第一・第二静慮地、あるいは第三静慮地の与楽が説明されている。

このように、『声聞地』は四無量を特に区別せず、欲界~第三静慮までと見ていることが分かる

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法介 2023/09/13 (水) 22:51:13

「六因説」について 兵藤 一夫
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/印度学仏教学研究/印度學佛教學研究第33巻第2号/Vol.33 , No.2(1985)078兵藤 一夫「「六因説」について -特に「相応因」と「倶有因」に関して-」.pdf

有部の因縁論の中、「四縁説」は識(心)の生起に関する縁の分析に由来し、そこには普遍的な性格があったため、大乗も含めた他の学派にも広く採用されるところとなった。これに対し、「六因説」は有部の独特な法の理論を北具尽としており、有部的な色彩の濃いもので、当然ながら有部独自の学説という域に止ってしまった。中でも特に、「相応因」と「倶有因」の二つはその有部的色彩が最も顕著なものである。したがって、有部の「六因説」の性格を考察する場合、この二因は格好の素材となる。また、この二因に関しては、有部内部においてその理解の仕方にいくらかの違いがあるようである。それは因の成立条件に関する問題であって、「同一果」によるのか「互為果」によるのかという古来からの問題に帰着する。そこで、この小論では「相応因」と「倶有因」の内容・性格を、有部の法の理論と関連させながら検討し、最後に「同一果」と「互為果」についていささか言及してみたい。

六因の中、「相応因」と「倶有因」は倶生法に対して適用される因である。すなわち、この二因は、ある生起した法(果なる法)と倶生した諸法の中で、果なる法と密接不離な関係にある法に対して設定されたもので、いわゆる同時的因果関係を表わしたものである。このように、有部が同時的因果関係を主張することは有部の因果論の最大の特徴の一つであるが、「因は果よりも先に存在する」という世間一般の常識に逆らうことで諮り、この点が『倶舎論』や『順正理論』において他の学派から批判されるところである。しかし、有部の法の理論からすれば、この同時的因果関係の是認は必然的な帰結である。

有部の法の理論のもう一つの特徴は、実有法の分析の徹底化である。有部の考え方では、実有法は自性を有したものである。一つの実有法に複数の自性は認められないことにより、その法に少しでも別な性質が混っていたら、それを分離して別立するという厳格な態度が見られる。しかし、この態度は反面では世間的な諸存在の有機的統合性を破壊する。例えば、有情の心的活動を心王と諸々の心所なる別法に分解することは、心が全体として有している有機的な機能を損う。また、有為法をその法としての自性と有為として
の自性(有為の四相たる生・住・異・滅)に分解することは、刹那滅性という有為法個有のダイナミックな本性を奪い去ることになる。このように、法の分析を徹底的に押し進めて、法をより基本的な要素的存在へと分解していくと、それら分解された法の有機的な性質はますます薄められてくる。

五位七十五法説の持つこのような傾向を修正し、一切の有為的存在の有機的統合性を回復させる一助として利用されるのが、「諸法の倶生」或いは「相応」、「倶有(倶生)」という概念である。この中、「相応」とは心と心所聞の有機的統合を表示し、「倶有(倶生)」とはそれ以外の諸法間の有機的統合、例えば、有為法と有為の四相、色法の八事倶生(四大と(2)色・香・味・触)など、を表示する。