スレタイ
5474d7bd3f
シーツ
通報 ...
当時私は小学五年生でした.私の住む地域では揺れは観測されず,いつもと変わらない金曜日でした.
家に帰ると,部活でいつも帰りが遅いはずの中学生の姉が家にいました.
大分県にも津波注意報が出て,早く帰らされたらしいです.
姉はすぐに「見て!地震やばい!」とテレビを観て騒いでいました.
テレビを観ると,なるほど確かに,今まさに仙台空港に津波が到達,小さな自家用ジェットみたいなのが次々と流されていく様子が生中継されていました.
あちこちで繰り広げられる大惨事に,私は言葉が出ませんでした.
特に記憶に残っているのは,場所は忘れましたが,家が燃えて大きな炎を上げながら津波に流されている映像です.「ほのお,水タイプじゃん!!」などと思っていました.
千葉県のガスタンクみたいなのがめちゃ燃えてるのも印象的でしたね.ドラえもんが放送中止になったのも.
で,その日の夜,「原発で爆発が起こった」みたいなニュースが入って来たときは,原発なんてものはよく知りませんでしたが,「とにかくやばいことが起こっているんだなぁ」と子供心にそう感じていました.
自分も当時小学5年生で、授業中に大きな揺れが来て皆すぐ机の下に隠れた。
揺れが長くて気持ち悪かった。先生がすぐ教室のテレビを付けてNHKをかけた。
最初テレビつけた時ミヤネ屋やってて、宮根誠司の顔でなんか皆笑った。学校でテレビ見ると笑いの焦点下がってCMとかで笑うよね。
そしてすぐ家に帰ることになって、各々の保護者が迎えに来るのを待った。仕事とかで迎えに来られない保護者の子は、体育館で1日過ごしたらしい。当時自分は「楽しそう!」と思ったが、今考えるととても辛いはず。自分は普通に母親と帰った。
そうして家に帰ると、テレビで津波の中継をやっていて、家も車も何もかも流される非日常な光景、家のベランダから助けを求める人々や電柱に掴まる人などを観て、「これはただことじゃないな」と思った。
大好きなドラえもんも放送中止されて(イラついた)、どの局でもニュースをずっとやっていた。
自分は当時小学生なのにネットをよく見るマセガキだったので、まとめサイトとか見てネット民の発言とかを見ていた。
千葉県のコンビナートが炎上している中継や、福島第一原発の爆発なども見て衝撃を受けた。
でも少しこのあり得ない状況に、非日常に、ワクワクしてる自分もいた………。
その頃公共広告機構のあいさつの魔法のCMがアホみたいに放送されまくっていて、無意識に「こんにちはこんにちワン!ありがとうありがとウサギ〜」と歌うようになってしまっていた。
あと、YouTubeにさよなライオンとかのポポポポーンのキャラがロボット化する動画とかあってそれを見て親父とゲラゲラ笑っていた。
うごメモでもポポポポーンのメモが流行って自分もいくつか投稿した。
近所のスーパーでは高齢者達による買い占めが行われていて、「何だこいつら」と思った。
あと春休みに親父が「心配だろうからじいちゃんばあちゃんに顔見せたり。ここは放射能まみれだしな。俺は仕事やから行けんけど」と言って自分は両親の実家に帰った。
親父は今も東北の魚介類や農産物は放射能があると言って買うのを拒む。そのため自分もそう考えるようになった。もう大丈夫だとは思うが、やっぱりすこし怖い。
あの時日本は1つになった気がした。また南海トラフだの首都直下だのですぐ巨大地震は起こると思うけどその時も日本国民一丸となって立ち向かおうではないか!!!!!
自分は0メートル地帯に住んでいるので津波は恐ろしい。
もう7年なんだな
2010年ぐらいから時が止まってるよ自分の中では
思い込みガイジ嫌いが強まりました😆👍
当時小学3年生、当日の午前は偶然にも避難訓練がありました。給食を食べ終え、パソコン室で調べ物学習をしていたところでした、突然流れた「大きな地震がきます!これは訓練ではありません!机の下に隠れてください!」という校長先生の放送が印象的でした。パソコン室の長机の上からぶら下がる有線マウスや、教科書類が入ったらロッカーが倒れる大きな音は地震の大きさを僕に知覚させました。
それからの数日間は家族揃ってリビングで寝て、朝起きたら被災地の映像をニュースで見て、怖いねえといって学校に行く毎日でした。
ニコニコでポポポポーンmadが増えて爆笑してました
小学校のお別れ遠足でちょうど解散のときに先生に電話かかってきて地震があったから一時待機しましょうみたいになったのは覚えてる
緊急で家の人の迎え呼んだりしてなんか大変だった
その日の夜だか翌日だかに原発のニュースやら津波の映像やらみてやべーってなってた
自分語りマシン
お前もかけ
ドラえもんが放送中止になってキレた
終わり
はいうんこ 思考停止した時点で人間は死んでるから