田越川の処刑と言えば、「六代御前」の話もあります。
京急「逗子葉山駅」の南西側 田越川沿いに「六代御前の墓」があります。六代御前は、平高清という名で父は平維盛、平清盛の曾孫にあたります。六代という名は高清の幼名であり、平氏興隆の基盤をつくったとされる平正盛から数えて六代目ということから名付けられました。したがって、高清は清盛、重盛、維盛と続いた清盛嫡流最後の一人ということになります。
平氏滅亡後の文治元年(1185年)、北条時政の捜索によって高清は捕らえられました。清盛の曾孫に当たることから本来なら鎌倉に送られて斬首になるところを、文覚上人の助命嘆願があって処刑を免れ、その身柄は文覚に預けられることとなりました。また、六代の母は夫(維盛)の死後に頼朝の信頼が厚い公卿の吉田経房と再婚しており、この事も六代の助命と関係している事が考えられます。文治5年(1189年)に六代は剃髪して妙覚と号。建久5年(1194年)には文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて異心無く出家したことを伝えました。源頼朝は平治の乱後、六代の祖父である平重盛が自身の助命のために尽力してくれた恩に報いるためとして六代を関東に滞在させ、その後六代を招いて、異心がなければどこかの寺の別当職に任命しようと申し出ています。
その後の六代について『平家物語』などでは庇護者であった文覚が流罪となった後、弟子であったことから修行中であった六代も捕らえられて処刑されました。処刑の時期も1198年から1203年、処刑場所も田越川、鎌倉、駿河国と諸説あります。
墓は田越川の側にあります。田越橋を過ぎて少しいったところを左に入ると小さな丘があり、これが六代御前の墓です。バス停「六代御前まえ」があります。ひらがなで「まえ」と書くのがミソで漢字で書くと「六代御前前」になって変です!