大河ドラマ鎌倉殿は終わってしまいましたが、今回はドラマでは描かれなかったその後の歴史痕跡を訪ねてみました。
義時の盟友である三浦義村(山本耕史)は策士であり、身内をも裏切りながら危ない橋をうまく渡り続けました。造反を画策しながらも結果として北条氏を助け、最終的には亡くなるまで御家人ナンバーワンの地位を維持しました。
一族の存亡をかけてこの時代を生き残るためには、時には非情な選択が必要になります。
その痕跡が身近な場所に残っていました。
承久の乱で朝廷側についた弟の胤義(たねよし) は官軍の主力として戦ったにもかかわらず兄からも上皇からも見捨てられ、子息の胤連、兼義とともに自害、東国に残していた幼い子たちも長子を残して処刑されてしまいました。
その幼い子供たちが処刑された場所が逗子市の中央を流れる田越川の河原です。
京浜急行の逗子葉山駅から百メートルほど離れた空き地にその慰霊碑はあります。
大河ドラマが始まったばかりの頃にいちど訪れましたが、まだその頃は三浦一族の全体像が掴めていなかった為に慰霊碑の傍に立てられた説明文を漠然とながめました。
今回ふたたびその慰霊碑の場所へ行ってきました。今度はドラマの映像と重なって、当時の様子がハッキリと脳裏に展開していきました。
北条氏に忠誠を誓うためとはいえ弟の子供たち4人(9歳、7歳、5歳、3歳)の処刑を受け入れるのはどんなに辛かったでしょう。
後に義村は三代執権北条泰時と共にこの地を訪れ、8万4千基の石塔を建ててその霊を弔ったといわれています。
今回、大河ドラマのおかげで地元の歴史を身近に感じることができました。そして史跡を巡り実際にその足跡を目の当たりにして感じたのは、権力争いの醜さ、この鎌倉という地域においていかに多くの血と涙が流されたかです。
今のこの時代に生まれて、あたりまえのように生きていますが、平和というものがいかに有難いかをつくづく感じました。
田越川の処刑と言えば、「六代御前」の話もあります。
京急「逗子葉山駅」の南西側 田越川沿いに「六代御前の墓」があります。六代御前は、平高清という名で父は平維盛、平清盛の曾孫にあたります。六代という名は高清の幼名であり、平氏興隆の基盤をつくったとされる平正盛から数えて六代目ということから名付けられました。したがって、高清は清盛、重盛、維盛と続いた清盛嫡流最後の一人ということになります。
平氏滅亡後の文治元年(1185年)、北条時政の捜索によって高清は捕らえられました。清盛の曾孫に当たることから本来なら鎌倉に送られて斬首になるところを、文覚上人の助命嘆願があって処刑を免れ、その身柄は文覚に預けられることとなりました。また、六代の母は夫(維盛)の死後に頼朝の信頼が厚い公卿の吉田経房と再婚しており、この事も六代の助命と関係している事が考えられます。文治5年(1189年)に六代は剃髪して妙覚と号。建久5年(1194年)には文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて異心無く出家したことを伝えました。源頼朝は平治の乱後、六代の祖父である平重盛が自身の助命のために尽力してくれた恩に報いるためとして六代を関東に滞在させ、その後六代を招いて、異心がなければどこかの寺の別当職に任命しようと申し出ています。
その後の六代について『平家物語』などでは庇護者であった文覚が流罪となった後、弟子であったことから修行中であった六代も捕らえられて処刑されました。処刑の時期も1198年から1203年、処刑場所も田越川、鎌倉、駿河国と諸説あります。
墓は田越川の側にあります。田越橋を過ぎて少しいったところを左に入ると小さな丘があり、これが六代御前の墓です。バス停「六代御前まえ」があります。ひらがなで「まえ」と書くのがミソで漢字で書くと「六代御前前」になって変です!
しかし!あの時代はみんな処刑されてしまうんですね!
六代御前まえのトイレはいつも給水にも使わせてもらっている私にとっては貴重なオアシスです(笑)