序歌 王仁 難 波 津 に 咲 く や こ の 花 冬 ご も り い ま を 春 べ と 咲 く や こ の 花
和泉式部 あらざらむ この世のほかの おもひでに 今ひとたびの あふこともがな
小式部内侍
大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立
おおえやま いくののみちの とほければ まだふみもみず あまのはしだて
歌としてはそれほどの出来ではない(あくまで個人的主観)
エピソードでよく知られた歌 小式部内侍は名歌人和泉式部の娘
歌合わせ(和歌の試合)の席で同じ歌会に来ていた藤原定頼から嫌味を言われる それに即興で機転の利いた歌を詠み才女ぶりを示したことで有名な歌
小式部内侍は名手和泉式部の才をひいたのか幼少時より歌に秀でていた それを母親が作ってるんじゃないかなんて陰口を叩かれていた
藤原定頼はいつも代わりに歌を作っているお母さんには使いを出したか? 返事は来たかと皮肉った
当時母和泉式部は夫の丹後赴任に同行して都を離れていた
その藤原定頼の嫌味に対して当意即妙に返したものとして伝えられている
大江山や生野を越えるのは遠すぎて母のいる天橋立はまだ踏んでもいない
生野と行く野を掛け 遠い道のりをまだ踏んでもいないと文と踏みを掛ける
母親の代作ではないとチクリとやり返す まだ儒教文化以前の女性が強かった良き時代 藤原定頼は這う這うの体で逃げ出した
式子内親王
玉の緒よ絶えねば絶えね ながらへば忍ぶることの弱りもぞする
たまのをよたえなばたえね ながらへばしのぶることのよわりもぞする 和泉式部が能動的に恋を歌うなら 式子内親王は受動的に恋を歌う
この歌も内面をうたったものだが調子はかなり激しく強い
生きながらえれば恋人を思うこころが弱ってしまう それくらいならいっそ死んでしまった方がいい
誰もが通ったんじゃないかな
今の大河ドラマ 貴族社会が武士社会にとって代わられようとしている
式子内親王の兄以仁王は清盛に兵を挙げ敗れる 当時は天子untouchable 皇族同士の権力争いで皇子が殺されることはあっても武士が皇子を殺すことはなかった 島流しにするくらいのこと 後の尊氏の弟直義が後醍醐皇子の護良親王を殺害したくらいしか武士の皇子殺害はないんじゃないかな
父は後白河天皇 治承寿永の平家源氏の争乱の激動時代 兄以仁王に連座して出家する
百人一首の選者定家と恋仲にあったとも言われている
この歌は定家に送ったとされている
いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし
これも激しい恋心を歌い上げている 新古今和歌集では定家はこの歌を評価していない それがかえって恋仲にあったんではとの推測を誘っている
定家の父 藤原俊成
君が代の3番の作者でもある
君が代は千代ともささじ天の戸や 出づる月日のかぎりなければ
1番以外は歌われることはないのであまり知られていない 2番3番4番ともほぼ1番と同じよう それで1番以外は歌わなくなったんだろう
定家の父にして 式子内親王の歌の師匠でもある
有名な弟子に清盛の弟の平忠度がいる 家人としてより名前の「タダノリ」として有名 薩摩の守であったので無賃乗車を「サツマノカミ」なんて言った時代がある 源氏に追われて都落ちに際して従者6人だけを従え 身の危険を犯しながらも源氏支配下の京みやこに師俊成を尋ねた 歌百首ほどを師俊成に託し その中の一首でも勅撰和歌集に取り上げて欲しいとの願いを残し去る その後すぐに一の谷で敗死
俊成は鎌倉のを慮ってかその中の一首のみを詠み人知らずとして勅撰和歌集ではなく千載集に載せた 俊成はその功徳によって当時では珍しい90歳まで生きたとも言われている 武士同士の争いの中沈みゆく貴族社会 もう一つの鎌倉殿だな
君が代 4番まで
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小式部内侍
大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立
おおえやま いくののみちの とほければ まだふみもみず あまのはしだて
歌としてはそれほどの出来ではない(あくまで個人的主観)
エピソードでよく知られた歌
小式部内侍は名歌人和泉式部の娘
歌合わせ(和歌の試合)の席で同じ歌会に来ていた藤原定頼から嫌味を言われる
それに即興で機転の利いた歌を詠み才女ぶりを示したことで有名な歌
小式部内侍は名手和泉式部の才をひいたのか幼少時より歌に秀でていた
それを母親が作ってるんじゃないかなんて陰口を叩かれていた
藤原定頼はいつも代わりに歌を作っているお母さんには使いを出したか?
返事は来たかと皮肉った
当時母和泉式部は夫の丹後赴任に同行して都を離れていた
その藤原定頼の嫌味に対して当意即妙に返したものとして伝えられている
大江山や生野を越えるのは遠すぎて母のいる天橋立はまだ踏んでもいない
生野と行く野を掛け
遠い道のりをまだ踏んでもいないと文と踏みを掛ける
母親の代作ではないとチクリとやり返す
まだ儒教文化以前の女性が強かった良き時代
藤原定頼は這う這うの体で逃げ出した
式子内親王
玉の緒よ絶えねば絶えね ながらへば忍ぶることの弱りもぞする
たまのをよたえなばたえね ながらへばしのぶることのよわりもぞする
和泉式部が能動的に恋を歌うなら
式子内親王は受動的に恋を歌う
この歌も内面をうたったものだが調子はかなり激しく強い
生きながらえれば恋人を思うこころが弱ってしまう
それくらいならいっそ死んでしまった方がいい
誰もが通ったんじゃないかな
今の大河ドラマ
貴族社会が武士社会にとって代わられようとしている
式子内親王の兄以仁王は清盛に兵を挙げ敗れる
当時は天子untouchable
皇族同士の権力争いで皇子が殺されることはあっても武士が皇子を殺すことはなかった
島流しにするくらいのこと
後の尊氏の弟直義が後醍醐皇子の護良親王を殺害したくらいしか武士の皇子殺害はないんじゃないかな
父は後白河天皇
治承寿永の平家源氏の争乱の激動時代
兄以仁王に連座して出家する
百人一首の選者定家と恋仲にあったとも言われている
この歌は定家に送ったとされている
いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし
これも激しい恋心を歌い上げている
新古今和歌集では定家はこの歌を評価していない
それがかえって恋仲にあったんではとの推測を誘っている
定家の父
藤原俊成
君が代の3番の作者でもある
君が代は千代ともささじ天の戸や
出づる月日のかぎりなければ
1番以外は歌われることはないのであまり知られていない
2番3番4番ともほぼ1番と同じよう
それで1番以外は歌わなくなったんだろう
定家の父にして
式子内親王の歌の師匠でもある
有名な弟子に清盛の弟の平忠度がいる
家人としてより名前の「タダノリ」として有名
薩摩の守であったので無賃乗車を「サツマノカミ」なんて言った時代がある
源氏に追われて都落ちに際して従者6人だけを従え
身の危険を犯しながらも源氏支配下の京みやこに師俊成を尋ねた
歌百首ほどを師俊成に託し
その中の一首でも勅撰和歌集に取り上げて欲しいとの願いを残し去る
その後すぐに一の谷で敗死
俊成は鎌倉のを慮ってかその中の一首のみを詠み人知らずとして勅撰和歌集ではなく千載集に載せた
俊成はその功徳によって当時では珍しい90歳まで生きたとも言われている
武士同士の争いの中沈みゆく貴族社会
もう一つの鎌倉殿だな
君が代 4番まで