老女に手を引かれて、山を降りた私は老女の家に招かれた。
老女は土埃や泥にまみれた私を憐れに思ったのか、暖かいお風呂を用意して入るように言ってくれたのでその厚意に甘えさせてもらった
何でもあの山は老女のもので時折山菜等を取りに行っているらしい。
記憶がないとは言え、無断で山に入った事を謝ると老女は笑って許してくれた。
老女の娘が昔使っていたものだと言う部屋着を借り、着替えた私を老女は居間に呼ぶとお茶とお菓子を用意してくれていた座るように促される。
私は素直にそれに従い、私の事情を話してみる事にした。
「……という訳で、私は私が誰なのか、何故彼処にいたかも分からないのです」
「記憶喪失、そりゃ大変ね」
私の言葉に老女は目を丸くして驚くと、落ち着く為か、湯飲みに入ったお茶を口にした。
私もそれに倣いお茶を飲み、菓子に手を付ける。
甘く、暖かい。体に疲れこそないが、これからどうすればいいか戸惑っていた心に活力が戻った気がした。
「貴女名前も覚えちょらんの? 何か思い出しぇることはなえ?」
老女は私の目を見つめながら問いかける。
「頭の片隅にアイ…と言う言葉を覚えているです」
アイ。集中して頭の中を探った時にふと思い浮かんだ言葉だ。
果たして私の名前に関係があるだろうか。
「アイ…そう、ならアイコって呼ぶわね」
一先ず仮の名前はアイコになった。
自分が何者かは分からないが、少なくとも名無しではなくアイコという名がある。
それだけで少し気力が沸いてくる
老女によるとこう言うのを言霊というそうだ。
「ほんなら出雲に行くとええわ、あそこは人も多えし貴女の事を知ーしもおーかも知れん、お医者さんもおーだらーし」
少しの間考え込んでいた老女は、思いついたように声を上げる。
出雲と言う言葉にストレージに眠っている知識が解放される
出雲、県出雲市或いは世界改編に伴い出雲をベースとして再編されたモザイク都市、神の住まう都市出雲
場所が分かるとそれを切っ掛けに次々と知識が涌き出てくる。
しかし、同時に疑問に思う。これは本当に私が学んで得た知識を思い出しているのだろうか、まるで誰かに与えられた知識を都合に応じて解放しているような……
胸の中の奇妙な感覚、感情を圧し殺す。
今は私が何者か、そちらの方が重要だ。
「今日はもう遅えけん泊まって、明日の朝出発すーとええわ」
私はすぐに出発しようと思ったのだが、老女の言葉に外を見ると確かに日が落ちかけていた。
またしても老女の世話になるのが申し訳なく、せめてもの恩返しとして家事を手伝うことにする。
夜が明けて、私は借りた布団を畳むと庭の掃除を行い、出立の準備を整えた。
元々私に荷物はない、老女に貰った古い旅行鞄の中にこれまた貰い物の幾つかの着替えがある程度だ、身は軽い。
「出雲に行ってどうにもならだったらここに戻ってきなぃ。年老いたおらでも貴女一人くらいならなんとかなーけん」
重ね重ねお世話になってしまったが、なんのお礼も出来ない。
せめて丁重に礼を言うと老女はにこやかな笑みを浮かべ、ここに帰ってきてもいいと温かい言葉ともに私を送り出してくれた。
感涙に胸が打ち震えるとはこう言う事をいうのだろうか。
老女の言えと別れの声を背にした私は出雲に向けて歩き出した。