「っ………!」
手が痺れる。そう思ってすぐに違和感に気づいた。“手が痺れる?”
もう私は剣道において初心者ではない。竹刀を受け損ねたとしても手が痺れるようなことはない。そういうのは握り方の甘い間だけのことだ。
それがクエロさんの打ち込みはまるで鉄塊でも受け止めたかのようだった。
単純に力任せに叩き込まれたのではない。まったく正体が判別できないが、このたった一瞬で知らない身体の動かし方をされた。
竹刀を取り落としそうになるが、膝を割って後ろに倒れ込むようにたたらを踏み必死に堪える。
すぐ戻せ、すぐ構えろ。地面に足を縫い付けるようにして留まり、再び竹刀を握り直して構えた。
一瞬の攻防の中でこの人の剣気のようなものが微かに見えた。夜の帳で何もないように隠しているが、一枚捲ればそこには剣呑な凶器がずらりと並んでいる。
今牙を剥いたのはその内のたった一本。そしてすぐにそれは仕舞われ、クエロさんは再び凪いだ湖面のような静かな正眼の構えに戻っていた。
「はッ、はッ、はッ………、はは、は………っ!」
一気に乱れた呼吸を整えようとするのだが、それよりもさきに笑いがこみ上げてしまった。
強い。知ってはいたけれど、分かってはいたけれど、この人は物凄く強い。私が出会ってきた人たちの中で一番強い!
どきどきと胸が弾む。初恋のように気分が高揚する。心地よい絶望感に唇が弧を描く。
駄目だ。今の私ではどんな手を打っても勝てる気がしない。一番得意な剣道でさえ歯が立たない。道大会を優勝したくらいで少しは上達した気になっていた自分が馬鹿みたいだ。
道に果てがないことの証左を前にして、私は自分でもびっくりするほど心を踊らせていた。
と、隙なく構えを取っていたクエロさんがふと緩めて剣を降ろした。
ほんのりと首を傾げながら微笑む。水面に張った薄氷を割るような、くっきりとした感触を覚えるあの笑みだった。
「素晴らしいですね。センスだけなら私よりも上です。あなたは剣に愛されている」
「そ、そうですか?でも今だって完全に押し込まれちゃって………」
「ですが剣を落とさなかった。並々ならぬことです。私とは積んだ時間の差があるだけ。あなたは良い剣士になれます」
はっきりとそう言われると面映ゆい。つい頬が紅潮してしまう。
何を褒められるよりも剣の腕を褒められるのが一番嬉しい。どんなことよりも心血を注いでいればこそだ。
クエロさんに稽古をお願いしてみてよかった。たぶん私は今、普通に全国大会に出場していたのとは違う種の濃密な経験値を稼いでいる。
強くなりたい。もっと、もっと。いろいろ理由はあった気がしたが全部忘れた。ただ、強くなりたい。
この人が修練でもって丹念に一本ずつ磨き上げただろう技のひとつひとつを手にとって、見て、自分のものにしたい。
もっと知りたい。もっと触れたい。この人のことを。この人の強さを。この人の心を。もっと。もっと。
クエロさんが構え直す。応じて私も降ろしていた竹刀の切っ先を再び眼前に備えた。
剣の向こうでクエロさんが微笑んでいる。それがどこか楽しげだったのは気のせいだろうか。分からない。
「もう少し続けましょうか。私も少し気が乗ってきました」
「はいっ!」
そして始まる間合いの調節。今度は影がついてくるように気配のない足取りで踏み込んできたクエロさんの袈裟斬りを必死で身を捩りながら回避しなければならなかった。
軽く数手、と言っていた打ち合いは気がつけば1時間以上経っていた。
終わってみれば私は全身汗だくだったのにクエロさんは冷や汗ひとつかいていなかったのが癪ではあったかな。