不思議だ。
クエロさんには好意を持っている。優しいだけの人ではないけれどきちんと温かみを持った人だ。
いや、微妙なぎこちなさを鑑みると『持とうと努力している』というのが適切な感じがする。
ともあれ私へ気遣ってくれているのは確かで、それに対して感謝や憧れといった複雑な感情を持っているのも間違いない。
それでも、こうして竹刀を握って相対すると浮かんでくる気持ちはひとつだ。
───倒す。目の前の相手を斬る。
たったひとつのことに純化していく感覚が気持ち良い。自分でも目が据わっていくのが分かる。
小さく、長く、深く、息を吐き出す。一緒に余分なものが抜けていく。鋭く研ぎ澄まされていく。
すごくいい感じだ。周囲の音が消えて、代わりに真っ赤な鉄を打つ音を幻に聞く。強い対戦相手を前にした時に自然と高まっていく己の集中を悟った。
教会の裏庭。目の前にはクエロさんがいる。私が貸した竹刀を握っている。
ぴたりと正眼に切っ先を置いたその構えに癖のようなものは感じられない。
無色透明。それは誰にでもできる構えだからこそ、易くは誰にもできない構え。人は構えひとつとっても癖が出る生き物だからだ。
力みもなく、だからリズムも読みにくい。仕掛けるタイミングが掴めない。
そういう時は相手の目を見ろと師範に教えられていた。覗き込む。深い虚のような、どこを見ているのか分からない瞳が出迎える。
竹刀を握っていなかったら、その目を見て怖いと思っていたかもしれない。
でも今は違う。剣の呼吸を聞いている。どうしてか、その目と見つめ合ってとても安心した。理由はすぐに思い当たった。
そうか。わざわざ私と同じところで付き合ってくれるのか。
構えに色はない。この人の剣のこの人らしさを知りたい。小手調べに踏み出した足を僅かに前へにじり寄せた。
「───」
途端、クエロさんの影が微かに淀む。小石のひとつやふたつ分、足の裏を滑らせて後ろに退いた。
ミリ単位の間合い調節。クエロさんは柔らかく膝を矯めてこちらを待ち構えている。
もう少し踏み込めるかと進ませかけた爪先が安全弁に引っかかったように止まった。
直感が走る。もう数ミリも踏み込めばクエロさんは待ちの姿勢から即座に攻めへ切り替えてくる。
間違いない。ここが私から攻め込める距離の分水嶺だ。そうと分かればいつまでも睨み合う必要はない。
相変わらず拍子は読めない。ならこちらから乱す………!
「えぁッッ」
空気を撓ませたのは裂帛の気合。
腹の底から弾けさせた叫び声と共に私は予兆なく肉薄した。
クエロさんの脳天めがけて拝み打ちを放り込む。必要最低限の力感で。
躱されれば更に踏み込む。受けられれば手元が上がって空いた首から下を攻める。
面打ちは剣道を始めれば最初に習う攻めであり、全ての基本となる一手。そして基本とは一番強いから基本なのだ。
対して、クエロさんは僅かに切っ先を揺らめかせた。
降り落ちる私の竹刀の横からまるでそっと指先で払い除けるように竹刀が添えられ、横にそらされる。
手元は上がらなかった。擦りあった竹刀が鍔のあたりでがちりと食い込んだ。踏み込んだ私と退かなかったクエロさんで竹刀を交わしあい、距離が密着した。
さっきまで間合いを挟んで見えていた目が至近距離にあった。その眼差しは先程と変わらずまるで揺らがない。
ぞろりと歯を尖らせた心が獰猛に笑う。その顔色を変えさせてやると。
首元へねじ込むようにして竹刀を斜めに押し込んだ。膂力だけではなく自分の体重全部を使って崩しに行く。
竹刀を絡めていたクエロさんが半歩下がる。リズムを読んでこちらも僅かに下がる。空間が開いた。瞬間、押した竹刀をそのまま降ろして面を取りに行く、と見せかける。
その切っ先を寸前で素早く引いた。すぐに最小限の矯めを作る。身体を開きながら素早く胴を打ちに行った。
崩しからの引き面をフェイントにした引き胴。自信を持って打った技だったが、敵もさるもの。
まるで面打ちの打ち気の無さを分かっていたように私の横薙ぎの一閃が払いのけられる。けれどまだだ。攻めろっ!
宙に浮いたクエロさんの竹刀を振り払うように斬りつけて前に出ようとした、その時だった。
打ち払おうとした竹刀が幻のように私の竹刀をすり抜けた。予想外の出来事に頭の中でアラートが点滅する。
何が起きた?刹那の間に把握した。竹刀の重みに任せて切っ先を沈めたんだ。虚空を打った竹刀が死に体になる。
戻せばまだ間に合う!勘によって動作を途中で止めた分復帰も早かった。
表へ戻した竹刀が迎え撃ったのは、竹刀を肩へ担ぐように振りかぶったクエロさんの激烈な打ち込みだった。