「………よく眠っているようですね」
客間の扉を僅かに開いたクエロは内部の様子を確かめてそう呟いた。
梓希が全身に負った傷は彼女の想像以上に消耗を強いている。傷を治すのにも体力がいるのだ。
深い眠りについているのを確かめたクエロは扉を閉じ、その足で音もなく廊下を進んでいく。
客間を覗いていた時に浮かべていたほんの微かな唇の綻びはその時にはもう無機質なものになっていた。
やがて裏口の扉を開いて外に出た。5月になったとはいえ夜半の風はまだ肌寒い。
教会の裏庭は静寂に包まれている。月光の青褪めた色に染まって寝静まるそこは平穏そのもののように見えた。
数歩進み出たクエロはふと身体を軽く沈み込ませ、膝を撓ませる。
そして、そのまま後方へふわりと飛び退った。
まるで重力を無視したかのような、柔らかく孤を描く後ろ宙返り。
ただそれだけで教会の屋根の上へと到達するのだから明らかに人間業ではなかった。
着地と同時に軽くステップを踏んで体勢を整えたクエロは何でもないことのように教会の三角屋根をすたすたと登っていく。
掲げられた十字架のあるあたり、教会の屋根の頂点へ至ったクエロはそこから遠景を見渡した。
「ああ、今夜も」
囁きは夜風に乗って消えていく。
クエロの目には遠い街の一角で轟と炎が燃え盛ったのが見えていた。
続いて大きな爆発。周囲の建物が破壊されて瓦礫が弾け飛ぶのが立ち上る炎の明かりによって見えた。
彼方とはいえ、これだけ派手に“戦い”が起きていてもこちらまで一切音は伝わってこない。
───この聖杯戦争において、クエロはあくまで聖堂教会から送り込まれた監督役。名代に過ぎない。
全体を統括する立場ではあるがそれぞれの役割を持った聖堂教会の人員が数多く裏では動き回っていた。この馬鹿騒ぎの隠匿のために。
聖堂教会は時代遅れの魔術協会と違い科学に対しての抵抗感など無い。
アナログな手段は当然として第八秘蹟も用いられ、そしてサイバー関連に長けた信徒たちも力を尽くしている。
あれだけ目立つことが起きていてもこの街の外からは認識されない。『つい見逃して』しまう。
SNSなどにも写真や動画が出回ることはない。万が一にも針の穴を抜けた証拠が出回るかもしれないがそれもすぐに消される仕組みになっている。
全ては無かったことになる。しかし───
クエロは足元、梓希が眠る部屋のあたりをちらりと見遣った。そして溜め息をつき、教会の屋根を蹴って重力に身を任せた。