このお風呂場が一般的な規模のサイズであったなら、私の理性は蒸発していたかもしれない。
辛うじて保たれた理性を繋ぎ止めるのは、43℃という熱めの温度設定と家族風呂もかくやといった広さの風呂場だ。
シスターさんに促されるがまま服を脱ぎ、汗を流して湯船の中へ。
シャワーを浴びる、という言葉通り、シスターさんは二つ設けられた洗い場で湯をかけ流している。
考えてみればシスターさんは外国の方だ。日本では一般的な「湯船にゆっくり浸かる」という文化に馴染みが薄いのかもしれない。
……そもそも、これまであの人に関するパーソナルな情報について関心を持っていなかった。
落ち着いたアッシュグレーの髪や流暢な日本語も相まって、別段意識を向けることはなかったが……。
穢れ一つ無い、純白とも言い換えられる肌が網膜に焼き付けられた事で認識が改められた。
そしてその肌が、四肢が、2m以内という至近距離に未だ存在しているという事実に思考が沸騰しかける。
本当は駄目だけど……良くないことかもしれないけど!もう一度だけ確かめたい!
そう荒ぶる心を抑えつけ、曇ガラスより透けて見える夜空と水面の波紋を見つめ続ける。
シスターさんが洗い終わるまでは湯船から上がることも……視線を移すことすら許されない。
…………誰かとお風呂に入るなんていつ以来だろう。
温泉のような大浴場ならともかくとして、こういった「お風呂場」に複数人で入るのは本当に久しぶりだ。
親族でない人となれば初めての経験である。となればこの動悸が冷めやらないのも仕方のないことだ、うん。
あ、駄目だ。思考が一段落すると余計な雑念がこみ上げてくる。
真珠のような白と黒のコントラスト。創作の世界でしか見たことがないような装飾品。
ガーターベルトって実在するんだ。妖艶の象徴とも言えるそれを、聖職者であるあの人が付けていたという事実もまた混乱を齎す。
いやそもそも、こんな思考を巡らせる事自体いけないことだ。当の本人が直ぐ側に居るというのに。
目を強く瞑り気持ちを押し殺す。今はただ心頭滅却、純粋に広い湯船で精神を落ち着かせて────
「あらら。結構熱めですねぇ。ここまで熱いとすぐにのぼせてしまいそうです」
────思い掛けず近くから聞こえたその言葉に、思わず目を開く。
水の滴る肌。先程よりも抑えめで、しっとりと艶めかしく輝く淡い白。
タオルの隙間より覗く、濡れて纏め上げられた濃い灰色の髪。
2mという距離を隔てていたことで保たれていた安寧が、またしても一瞬で拭い去られる。
距離にして……どれくらいだろう。最早目測すら覚束ない。ただ、手を伸ばせばすぐに届く距離であることは確かだ。
湯船に足を伸ばすも湯の温度に驚くシスターさん。その姿が門前に、目の前に映し出されて
その姿に、先程存在していたコントラストは見られない。
一面の白。その中で一点映える青い瞳。湯気の立ち込めるお風呂場に霞むその姿は、先程の姿とはまた異なる美しさを漂わせている。
それが何を意味するのか。白しかないということは、つまり。黒色が消えているということは、つまり。
この薄い湯気の中で目を凝らせば、つまり────。
……その日。私は人生で初めて、お風呂場で気を失った。