時が停まっている。クリスタが指に挟んでいる煙草の煙ばかりが揺らめき、その場で唯一動いているものだった。
どれだけ間が空いても、両者とも互いの顔をちらりとも見ることは無かった。問うた女は何もない床を。問われた女は何もない空を見つめるばかり。
悠久とも思える時。感覚すら忘れる頃になって漸く、クリスタは細く長い息を吹いて、ポケットに手を突っ込む。未だ変わらず其処にある、ナガンM1895拳銃の冷たい鉄の硬さを感じながら、洩らすように、一言だけ呟いた。
「……なんでだろ。わかんない。」
珍しく歯切れの悪い言葉で、答えを濁す。
こうした状況なら、いつもの底知れぬ無感情な笑顔を向けて、すぐさまもっともらしい理屈を並べるのがクリスタという人間だった。
彼女がこのように明確に言葉に詰まったのを見るのは、ヴィルマにとっておよそ初めてのことで───
───否。ヴィルマは知っていた。
初めてではない。このような様子の彼女は、確かにかつて見た事が有る。
それはあの日、あの時。倦んだ瞳を覗き込んだ、仄暗いあの通路。
女が自ら命を絶とうとしていた、他ならぬあの場所で───
ヴィルマは、隣に座っている女の、自分よりも低い位置にある横顔を一瞥した。
女は間近で見ると、思っていたよりも小さかった。肌は透けているかの如くに殊更に白く、陶磁の人形を思わせるよう。
燻みがかった黄金色の髪、変わらず濁った光なく大きな紅の瞳、細く小さな息遣いの聴こえる、色の薄い唇。
自分の全てを預けていると言ってよいこの女はその瞬間、何ゆえか、硝子の様に脆いものに思えた。
無色透明───その女に対する印象は、なおも変わりはしなかった。たかが一月程度の付き合いだが、人格もその通りであることは既に感じていた。
ソヴィエト連邦のスパイであること。ほんの少し前まで彼女について知っていたのは、それぐらいのものにすぎなかった。
しかしある局面で自ら命を絶とうとしていた彼女を拾い上げ、ボディーガードとして行動を共にするうちに、多くのことを知った。
それは文字通り常軌を逸した戦闘能力であったり、自分も騙され掛けた演技力であったり、世間知らずの自分に多くを教えられる知識であったり。
だがその根本的な無色透明さは、当初から感じていた通りであり、同時に想像を超えたものであった。
凡ゆるものに価値を置かず、物欲・食欲を初めとした根本の人間的欲求のみならず、生命の維持に対してすらも頓着していない。
不味い戦闘糧食も、偶然手に入った甘い菓子類も、その辺りを這っている虫も、全く同じ表情で食べるのだ。そのくせ『逃亡』という第一目標に対しては機械的なまでに適切に実行する。あたかもそれ以外のことなどこの世には無いかのように。
全てがどうでもいいから、いつでも楽観的な態度なのだろう、という事は容易に理解できた。そこには善も悪もなく、ただ『自分が此処に連れてきているから』『彼女は此処に居る』のだ。
それが何故なのかまではどうでもいい。しかしヴィルマは、そこに生じている綻びを見逃してもいなかった。
今まさに、言葉に詰まっていることもそうだ。それより何より、彼女は確かに覚えていたのだ。
あの日、あの時、確かにその透き通る瞳の奥に見た、人間性と云う不純物。水晶に生じた罅を……。
「あなたは……」
さらに口を開き掛けた矢先、ヴィルマの内に疑問が過り、言葉が止まった。
────私は何故、こんな事まで聞こうとしているんだろう。