「…さっきで何回目だったかしら」
「えーと…ゲシュタポに十六回、НКВДに五回。OSSに三回、MI6に五回……」
「それで今回SDECEが出て来たのを合わせると……お、記念すべき三十回目じゃん。おめでとー!」
原野に放置された崩落寸前の倉庫の中に、一切心の篭っていない、乾いた拍手が響いた。
「…おめでたくは無いと思うのだけど」
「いやー、めでたいよ?少なくとも君はそー思っといた方がいいよ。今にやってらんなくなるからねー。まだまだ来るだろうし?」
拍手と同様に乾いた嘆息を漏らす女と、事の重大さに反してからからと笑う女。
二人は亡命者であった。ナチス第三帝国の執り行った大規模な魔術儀式、聖杯戦争の参加者──
彼女等は今や、第三帝国が秘匿していた『聖杯』についての情報を得る為、世界各国の情報機関からその身柄、時には命を狙われる立場にあった。
そのうちの一人──小柄な金髪の女、クリスタは、先ほど拾ってきたボロボロのフランス語の新聞を眺めながら、少し離れた位置の、倉庫のかたすみに捨てられたマットレスの上に座って居るダーク・ブロンドの髪もつ女、ヴィルマに話し掛ける。
「さすがにゲルマニヤを出てから頻度は減ったけど、まー情報網は撒け切れてないよね。めんどくさいなー。」
「そう。…フランクライヒも戦禍が落ち着いて来たみたいね…ここも長くないかしら」
「イポーニャも降伏したっぽいしねー。ド・ゴールもけっこう動いてる……どさくさに紛れてべルギヤ辺りに高飛びしたいとこだね。」
ドイツ、スイス、フランスと長距離を身元を詐称しつつ、盗品の車で続けざまに移動してきた彼女らは、互いの強がりで以て隠していた物の、いよいよ疲労が隠せぬ様子となっていた。
緊迫した状況下にあって、このような廃屋の中に一時の休息を摂っているのは、何の計画があった訳でもない。
長い車旅の中でぽつねんと建っていたこの建物を示し、片方が遠回しに休息を促し、片方が遠回しに了承したというだけのこと。
かくして二人は、錆び付いたトタンで組まれたこの古倉庫の中で、僅かに許された休息に甘んじているのであった。
「
「ね、何て言われても。」
「君も素手で戦えるぐらいにはなっといた方がいいと思うよー?」
なおも状況と乖離したような気楽な調子であっけらかんと喋るクリスタは、会話の途切れ目にやおら新聞をかたわらに置いて言った。
「そっち行くよ」
「ええ」
新聞をその辺りに捨てて立ち上がり、放置されているマットレスの上、ヴィルマの隣に座る。
傷んだ短髪をかき上げると、懐からぐしゃぐしゃの紙箱を取り出した。
一本の乾燥した煙草を取り上げて火を点ける。煙を肺に入れ、ゆっくりと吐き出す、その繰り返し……
虚空を望むその紅色の瞳の奥は、宙と同様かそれ以上にうつろな様子で、あたかも現世を正しく認識していないかのようないびつさを孕んでいた。
そうした一連の所作を感情の灯っていない瞳で眺めていたヴィルマは、しばしの静寂を破るがごとく、ふと独り言のように呟いた。
「……私が」
「ん?」
わずかな逡巡ののち、女は言葉を続ける。
「私があなたを雇ったとき……死のうとしていたでしょう」
「……あ、バレてた?あれは…」
「……何故?」
問いかけが間髪入れず投げ入れられる。その瞬間、二人の間には、一転してすべてが凍り付いてしまったかのような静寂が訪れた。
クリスタはなおも空虚な笑顔を崩さないが、一瞬ヴィルマに向けていた視線をふたたび虚空の中に戻し、しばしの沈黙に暮れはじめる。
ヴィルマは問いを投げても隣の女の方を見ようともせず、草臥れたような淀んだまなざしを、古びたマットレスの糜爛した繊維に向けているだけだった。