ああ、なるほど。完全に失念していた。やっぱり今日の僕は頭が回っていないらしい。
初めてのデート以前に、初めての水族館。それならば、下手にあれこれ見物先を選ぶよりも、手前から奥まで眺めて、興味が湧いたものを長く見るという、手ぶら無策で挑む方がきっと楽しい。
エスコートすると言った通り、今日の僕は道案内役に徹しよう。頭の中で描いたプランを、まとめて浄化の火に投げ込んで忘れる。
久遠美影は計5分ほどカサゴを眺めると隣の水槽へ歩を進める。そこにいたのはエビ。
食卓に並ぶような赤くて折れ曲がってプリプリしたやつではなく、やや青みがかった鎧のような殻を全身に被り、切断の用途には使いづらそうなずんぐりとした鋏を持った手のひらほどの海棲生物。
水槽の下に貼られているパネルを見ると、どうやらシャコの仲間らしい。
カサゴと同様、視線にエネルギーがあるのならシャコを殺していたと思えるほど、美影さんは水槽の中をその両の眼で覗いている。
今度は2分と経たずに次の水槽へ、その次は、その次は。
繰り返すたびに時間が短くなるのは慣れか飽きか。
およそ1時間半ほど経っただろうか、見物時間の差こそあれ、これまで全ての水槽を眺めながら、僕らは館内の半ばに至っていた。
狭い通路の両側にクラゲの水槽が設置されている箇所を抜けた先にあるそこは、いわゆる海の生物との触れ合いコーナー、というやつだった。
さすがに人が直接触れるものとなると種類は限られていて、蓋が空いた横に長い水槽の中に小さなサメやヒトデ、ウニの仲間と思わしきものが入っていた。水槽を跨いだ先から係員さんがニコニコしながらぜひ!とこちらを誘導してくる。
ちらりと横目に久遠美影の表情を伺う。相も変わらない無表情だが、それはつまり不快感を抱いていないということである。
彼女はポーカーフェイスに見えるが、それは感情の揺れ動きが少ないだけであり、不満な時はきちんとそれが表出する。僕が会話を交わし続けて理解した、数少ない彼女のパーソナリティ。
ならば是非もない。
「触ってみようか」
「…………ええ」
レディファーストよりは男が先陣を切るべき場面だろうと考え、軽く腕を捲ってから水槽の水に手を付ける。水道水とは異なる磯の臭いを感じながら、水底のヒトデに触れる。
初めて触ったわけではない、と思うのだけれど、そのザラついた石ともゴムともつかないような感触は記憶の倉庫には入っていない新鮮なものだった。
「ほら、美影さんも。噛み付いたりはしないよ」
「……………」
和装の袖を持ち上げ、やや無理をする形で腕を出す久遠美影。彼女にしては珍しいことに、おそるおそると言った調子で水に指をつけていく。表情は本当に僅かにだが強張っているように見え、眼だけが今までと同じく淀んだ視線をサメに向けている。
白く長い中指の先、爪がサメに触れた瞬間。
サメが跳ねた。
「え………?」
「…………!」
魚が水面から跳ね出るという光景はけして珍しいものではないし、自然環境を中継するテレビ番組や、学校にある池なんかで何度も見たことはある。
しかし今回のそれは、それらと比べても異様だった。
まずその高さ。僕の腰のあたりにあった水槽から、僕が見上げなければならないほどの高さまで一気に跳ね上がったのである。
そして跳ねたならば当然落下もするわけで、やたら高く飛んだサメは派手な水飛沫を上げながら水槽に着水すると、
再び跳んだ。
今度はやや低く、そして着水と同時にまた跳ねる。
何か薬物でも打ち込まれたのかと疑うほどの狂騒状態で、あたり一面が水槽から溢れた水で水びたしになっていく。
そばにいた僕もそうだが、水槽に手をつけていた久遠美影は酷い有り様だった。
「美影さん!そこにいると危ない、離れよう!」
呆然としているのか、それとも状況を観察しているのか、とにかく棒立ちのまま水を浴び続けていた彼女の手を取って後ろに下がらせる。
すると、それを待っていたかのように、途端にサメの大暴れは終わりを迎え、水槽に立った波音ばかりが残された。
これは、つまり、サメが&ruby(・・・・・・・・・){久遠美影を怖がった}ということか?
未知の脅威に晒されて、それから逃れるためにあれだけ暴れたと?
そんなバカな、という気持ちが3割。得心がいったという気持ちが7割。脳の算術的に常識的に考える部分は疑問符を浮かべているが、感情的に直感的に考える部分はこれ以上のない正答だと電球マークを浮かべている。
確かに今日はずっと見られている魚を哀れに思ってはいたが、本当に恐怖し逃げ惑われるとは思っていなかった。
そうやって脳内で今回の事故の整理を付けていると、
「冷たいのだけれど」