二人きりの家に、衣擦れの音が響く。
ともりはフローリングの床に正座の姿勢のまま、その音に意識を傾けていた。
上着を脱いでシャツ一枚になろうとする支の姿は、とてもじゃないが直視できず、目線は下向きのまま固定されている。男の人の上裸くらい、水泳の授業でもテレビでも何度も見ている。別に照れるほどのことでもないはずなのに、見たら頭がどうにかなりそうな、そんな気分に襲われていた。
そうして、身軽になった支は、ともりの正面に向かい合うように腰を下ろし、左の袖をずり下ろした。
そう、これは支からともりへの報酬。血液の譲渡である。
「ほら、どこを向いている」
「……どこを向いていようと、わたしの勝手でしょ」
「キミに勝手なんてものがあると思っているのか?生かされている以上、僕の言葉に従って一挙手一投足動かすのが道理だろう。少なくとも、その意識を持つべきだ」
「………本当にその態度、どうかと思うよ。あの綺麗な死徒の子にもそんななら、今に見捨てられるよ」
「ミナのことなら、それこそキミに言われることじゃない。僕だって道具や奴隷と対等な相方で対応くらい変えるさ」
「一応言っておくけど、私はきみの奴隷じゃない。これは協力関係。対等だと言うなら私だってそうだから」
「ああそうかよ。それで、吸わないのか?いい加減この体制も面倒なんだけど」
「吸う。吸うよ」
ともりは腰を少し上げて、膝立ちの体制を取って、支の肩に手を付く。
そしてそのまま抱きつくように顔を彼の首に牙を突き立てる。
「っ……!」
支の口から小さな呻きが漏れる。
ともりの口から赤い雫が漏れる。
ゆっくり、ゆっくり。静かに肉体から血液を吸い上げる。
それは吸いすぎて支を殺さないようにするための配慮でもあったが、それ以上に、その甘露を味わうためのものであった。
血が美味しいなどと、これまでの望まぬ捕食では全く思ったことなど無かったのに。この血だけは、とても美味しい。
人間だった頃に食べた蜂蜜のような、喉を焼く強烈な感覚。
だがそれもそう長くは続かない。
「ともり、そこまでだ。それ以上吸われる、と、困る」
静かに嗜めるような声。その声に従い、名残惜しげに、支の首元から口を離す。
目の前の少年は血の気が失せた顔で、吸血痕を抑えていた。
「あっごめ……きゃあ!?」
つい夢中になって吸いすぎてしまった。とっさに謝ろうとしたが、その前に支に抱きつかれる。
「え?え?あの、待って。そんな急に、もっと段階とか」
抗議の言葉を聞いているのかいないのか、今度は支の方がともりの首に食らいつく。
本来死徒の肉体に、人間の歯など容易には通らないが、ともりは別だった。彼女は生まれながらにして、食われることを前提にした死徒。たとえ人だろうと、それが捕食行為であれば、肉体はどうぞ食べてくださいと言わんばかりに脆く、柔らかくなる。
しかし、その肉は同時に捕食者にとって害ともなる。大量に食らえば命にも関わる。
ゆえに血。
支はともりの傷痕からの出血を舐めるように飲み、すぐにその口を離した。
「ぶはぁ!はぁ…はぁ…。ん……とりあえず、血は止まったか」
支は再び首元の傷口を抑える。そこから流れる血は確かに収まっており、痕は残るかもしれないが、これ以上無駄に血を失うことはなくなった。
「あのさ、『食べる』なら、前もって言って欲しいんだけど」
紅潮した顔を見られないように少し俯きながら文句を言う。
異性に抱きつかれるなんて経験、これまでほとんど無かったから、とてもびっくりしてしまった。いや、それを抜きにしても無言で距離を詰められたら誰だろうと驚くだろう。
そういう思いを込めての言葉だったが。