「動かないで」
いつも落ち着いて言葉を編む口から、鋭く釘を刺される。
ヴィルヘルミナだった。
そもそも彼女しかいないのだから当然である。
「何をしている」
「羽織るものが無いか探してみたのだけれど、どれもこれも血だらけで、とてもじゃないけど使えないわ。だから貴方の上着を貰うわね」
それはそうだろう。
今この場にある服は、彼女が殺した死徒が纏っていたものくらいなのだから。
「血ならいつも口にしてるだろう。今さら何を嫌がることがある」
「食べ物だからこそ身体に付けたくないという心理は、人間と共通すると思うわ。それともなあに?手を血で汚すこともしないどころか、衣すら渡したくないと言うの?」
「そんなことは言っていない。下手人がキミというだけで、主導者は僕なんだから。汚れるのはキミの手じゃなく、僕の口だな。そもそも、化物を殺したところでそれが罪になるとは思えないけれど」
「物は言いようね。んっ、脱げたわ」
残暑があるとはいえ、すでに夏は過ぎ去り、草むらでは虫の鳴き声の響く季節。
シャツを剥がれると、さすがに少し肌寒い。
背中でもぞもぞと服を着る気配がする。
「寒いんだけど」
やる事もないので悪態をつく。
「男の子でしょう、我慢なさい。着れたわ。もう振り返っていいわよ」
言われて後ろ、あるいは前を向く。
ヴィルヘルミナは、ボロボロになったドレスの上から、僕のシャツを着ていた。
体格的にはあまり変わらないはずなのだが、そこは男女の差なのか、少しばかり肩や袖がダブついている。
本来の彼女の見た目とは、明らかに不釣り合いで均整の取れていない姿を見て、おかしくなって小さく吹き出してしまう。
「あら失礼ね。急場凌ぎとはいえ、ここは嘘でも悪くないとでも言うべきところではなくて?」
しまった。
今さっきデリカシーの無い行為をして機嫌を損ねたばかりだった。
「いや、バカにするつもりはなかった。ついおかしくなって、なんというか、そう、いつものキミは浮世離れした雰囲気をしてるから、僕の服を着てると妙にアンバランスで、天使が零落したかのように見えてしまって━━━━」
慌てて取り繕う。自分でも何を言っているのかよくわからなくなったが、とりあえずこれ以上のすれ違い、衝突は避けたかった。
すると、今度は彼女の方が目を丸くしていた。
「私が天使かどうかはともかく、褒め言葉で零落はどうなのかしら。貴方にしては珍しいわね」
「良い表現が思い浮かばなかったんだよ。堕天とでも評した方が良かったか?」
「いいえ、そうではなくて。人を一番上に置く貴方が、私を人の上に居たモノとして扱った事がよ」
「それこそモノの例えだ。深い意味は無い」
「そうかしら」
「そうだよ。ほら、今日はここまでだ。そのナリじゃあ戦えないだろう。シャツはやるから、また明日同じ時間に。次こそはキミの血を見つけ出すと祈っておこう」
「そうしてくれると私も助かるわ。そろそろ、準備運動には飽きてきたもの」
終わってみれば僕が失ったものはシャツ一枚だけ、今日のところは信頼を損ねずに済んだらしい。
僕達は路地裏を抜け出し、大通りに向かって歩き出した。