「なっ…!あっ……ぐぅぅ!」
道路に押し倒される形になった僕は、突如として訪れた、経験の無い箇所への痛みに頭を焼かれる。状況がわからない。自分の身体から、何か大切なものが消えていく感覚。今、僕は何をされている?とにかく、今自分の上にのし掛かっているこのドレスの少女をどかさねば。
そう思い、少女の身体を押し返そうと手で触れる直前。
「んくっ……ん……痛っ!!」
弾かれるように少女が身体を起こし、僕の手は空振りする。少女は馬乗りの体制からさらに後退しようとするが、その足が僕のものと絡みつく。
引き摺られるような形で僕の身体も起き上がり、少女は道路に背中を打ち付ける。
奇しくも先ほどとは逆の体制。僕がマウントを取り、その下に少女がいるという図式に書き換わった。
見目麗しい血だらけの女の子と、その子を押し倒す夜間徘徊の学生。もし誰かに見られたら、きっと僕が悪者ということになってしまうだろう。
しかし、今はそんなことを心配していられない。
『幸い』にも取れた優位を崩さないように、空いた両手で少女の腕を掴む。ドレスで隠れていたのでわかりづらかったが、掴んでみて気づいたその腕の細さと柔らかさは、男一人に襲いかかれるようなものではないように思えた。
それでも、反射的に捕らえた以上、マウントを維持する。
「キミは、『何』だ?」
血と同じ、それより深い赫い眼を見ながら問いかける。
「レディに名前を聞く態度では無いけれど、血のお礼に教えてあげるわ。
私は、ヴィルヘルミナ・レーゲンスブルク。貴方たち人間が言うところの、吸血鬼よ」
得意げに語る少女。顔には生気が戻っていた。
「吸……血鬼……だって……?」
バカな。と言いたかったが、首筋の痛みと、彼女の口元の牙と血が、荒唐無稽な自己紹介に現実味を持たせる。
つまり、そう、僕は血を吸われたのだ。美しい少女に。美しい鬼に。
血を吸われたものは吸血鬼の仲間入りを果たすというが、現状肉体が大きく変化するような感覚は無い。あるのは異常事態への興奮と、虚脱感。
吸血鬼にも種類があって、血を吸うだけで眷属を増やすものもいれば、逆に吸血鬼の血を与えることでそれを成すものもいるという。彼女は後者なのだろうか。
いいや、違う。問題はそこでは無い。大事なところは、重要な点は、抑えなければならないポイントは吸血鬼の体質ではない。
真に優先するべきは。
「ええそうよ、吸血鬼。俗な言い方はあまり好みじゃないのだけれど。
実はちょっとへまをしちゃって、貴方が『幸運』にも通りかからなかったら死んでいたかもしれないくらい追い詰められていたの」
「へまっていうのは、誰かと戦って、負けたってこと?」
「む。負けた、というのは聞き捨てならないわ。他の死徒たちに血を奪われただけよ。死んではいないのだから負けではないわ」
思ったよりも負けん気の強い少女の言い分はともかくとして、そう、重要な点とはそこだ。
この吸血鬼の少女を死に至る直前まで痛めつけ、殺しかけ、勝利(彼女曰く違うらしいが)した存在が、この街にいるということだ。
化け物が僕の街にいるということこそ、聞き捨てならない。
「それで、そろそろこの手をどけてはくれないかしら。情熱的なのは嬉しいけれど、時と場所は考えないと駄目よ?」
聞こえない。
「キミは、その吸血鬼たちの敵なのか?」「……ええ、そうよ。お父様の後を継ぐんだって血気盛んな人たちでいっぱい。
私としては別に座には興味ないのだけれど、奪っていったものをきちんと返してもらわないと」
許せない。
「そいつらは、さっきのキミみたいに、人を襲うのか」
「襲うでしょうね。それが死徒の生きる術だもの」
認められない。
「━━━━そうか、なら、ヴィルヘルミナ」
「何かしら?」
「僕の血をキミに与える。その代わり、その吸血鬼たちの戦いに僕も混ぜろ」
まだ生態もわからないが、それでも彼女が僕の血液を必要としているのは明らかだった。「……本気? まだ会って数分足らずの私と同盟を結ぶの? 見たことも聞いたこともない化物たちと戦うの?」
「もちろん。それが僕の生きている意味なんだから。ヴィルヘルミナ、化け物の中でもキミだけは救ってやる。代わりに、僕のために働け。僕が提供するものは、僕の血と、『幸運』。キミが提出するものは」
「戦いの情報と、死徒としての力と言う訳ね。ええ、いいでしょう」
これにて契約は成立した。
これより先は地獄の道。
常人の踏み入れる余地の無い、血で血を洗う人のなれ果てたちの饗宴。
僕は、闇の世界に、一歩踏み出した。