「一切衆生 悉有仏性」について
『大般涅槃経』では、「一切衆生 悉有仏性」という御文があって、一切衆生にことごとく仏性が有ると説かれています。しかし仏教の教学では〝本未有善〟という仏法用語があります。本未有善とは「仏に成る為に必要な善行が無い」という意味で、日蓮大聖人は『曾谷入道殿許御書』で、
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ」
と、末法に入って、「釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権教と実教で成仏する機根の人は皆尽きてしまった」と言われております。ですから末法は「過去に仏との結縁が無い」本未有善の衆生が生まれてくる時代なので衆生が仏に成るには、新たな仏縁が必要となってきます。その仏縁として顕されたのが曼荼羅御本尊です。しかし、『大般涅槃経』では、一切衆生にことごとく仏性が有ると説かれています。この矛盾についてお話しします。
「一切衆生 悉有仏性」の仏性というのは、正因・了因・縁因からなる三因仏性のことで、正因仏性とは、「一切衆生に本来具わっている真如」のことで、了因仏性とは、その「正因仏性を自覚する智慧」のことです。また縁因仏性は、その「智慧を発現するための助縁となる善行」をいいます。日蓮大聖人は、『三世諸仏総勘文教相廃立』の中で、
「三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず」
と、善知識の縁(縁因)に合わないと正因も了因も顕れないと御指南あそばされております。
では縁因の〝善知識の縁〟とは一体何なのかと言えば、大聖人は『法華経』巻二譬喩品の、
「若し此の経法を信受すること有らん者は是の人は已に曾て過去の仏を見たてまつり恭敬し供養し亦此の法を聞けるなり」
の御文を引き出して、「既にかって過去世に仏を見たてまつり、恭しく敬い、供養し、またこの法を聞いたのである」と申されております。過去に仏との善行があるか否か、これが「本巳有善と本未有善」の意味するところです。ですから三因仏性は悉く一切衆生に有りと言えども、末法の衆生は本未有善なるが故に、仏性顕れずという事になります。にも拘わらず大乗では涅槃における四徳として〝常楽我浄〟が示されているのはどういうことか。次にそこのところをお話致します。
大乗では四徳の〝常楽我浄〟の〝我〟の部分を『大般涅槃経』の「一切衆生 悉有仏性」を根拠としていますが、大聖人は、『法華経』寿量品の「自我得仏来」を指しての〝我〟であると『御義口伝』の中で述べられ、その「自我得仏来」の意味を次のようにご説明なされております。
「御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身にして来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身・仏は報身・来は応身なり此の三身・無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。」
ここでいう「無始無終の古仏」の意味を少し詳しく説明させて頂きます。 「自我得仏来」は「我(われ)仏の悟りを得てよりこのかた」と一般には読みますが大聖人様はその深意を「我仏来は自得なり」と解釈され法身としての〝我〟、報身としての〝仏〟、応身としての〝来〟として無始無終として備わる三身を指す言葉であると説明なされ、その真意として「無上宝聚不求自得」の御文を引用なされております。
「無上宝聚不求自得」とは、「無上の宝聚(ほうじゅ)、求めざるに自から得たり」と読む『法華経』信解品第四の一節です。
譬喩品第三の「三車火宅の譬え」の説法を聴聞して、「開三顕一の法」を信解した須菩提等の中根の声聞衆が、信解品第四の冒頭で跳とび上がって喜び歓声を上げ、当品の後半部で、
「我等今日 仏の音教を聞いて歓喜踊躍して 未曾有なることを得たり 仏声聞当に作仏することを得べしと説きたもう 無上の宝聚 求めざるに自から得えたり」
とその喜びを述べられています。 この文を天台智顗が『法華文句』の中で、
「自ら顧(かえりみ)るに心に仏道を希望する無くして、而して今忽(たちまち)得記作仏することを聞く、故に不求自得と云ふなり」
と釈しています。爾前経では、二乗は小乗教(特に阿含経)に執着して灰身滅智しますが、それを小乗の解脱を得たと勘違いし、進んで崇高な仏の悟りを求めようとしませんでした。ところが『法華経』では、開示悟入の化導によって不成仏とされた二乗も成仏できることが説かれ、四大声聞は歓喜踊躍して釈尊に感謝の心を込めて「無上宝聚不求自得」と述べたのです。 大聖人はこの文の「無上宝聚」を、
「今日蓮等の類の心は、無上とは南無妙法蓮華経、無上の中の極無上なり。此の妙法を指して無上宝聚と説き玉ふなり。宝聚とは、三世の諸仏の万行万善諸波羅蜜の宝を聚(あつ)めたる南無妙法蓮華経なり」
と述べられ、仏の万行万善の功徳・善根を具足した南無妙法蓮華経の当体、即ち御本尊がそれにあたると御指南あそばされております。そして、「不求自得」とは、
「此の無上宝聚を辛労も無く行功も無く一言に受け取るは信心なり。不求自得とは是なり」
と仰せのように、ただ信心の一念によって「無上宝聚の御本尊の功徳」を授かることが出来ると申されております。このことを『観心本尊抄』では、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云」
と御指南あそばされております。 このような『法華経』における顕本は、諸経では説かれておりませんし、またその深い文底の意味するところの解釈も大聖人の御心を拝することで私達は正しく理解出来てきます。
何をどう理解出来るのかと申しますと、「自我得仏来」は「我仏来は自得なり」という意味で、法身としての〝我〟、報身としての〝仏〟、応身としての〝来〟として無始無終として備わる三身を指す言葉で凡夫の身に顕れる法身・報身・応身の三身如来の因となり得る三つの因が、
<三因仏性>
縁因仏性=応身如来(如来の相)
了因仏性=報身如来(如来の性)
正因仏性=法身如来(如来の体)
であるという理解が得られるということです。大聖人様が〝常楽我浄〟の〝我〟を「自我得仏来」の〝我〟と解釈される深意はこういうことです。
このように大乗の〝常楽我浄〟の誤った解釈により「永遠不滅の仏」といった〝常見〟の外道思想が仏法に混ざりこんでしまっている現状がありますが、 お釈迦様が説かれた「永遠に変わらずに有り続ける存在はあり得ない=縁起」と「縁起なるが故に無我」の真理は大乗・小乗に限らず一代聖教を貫く真理に他なりません。