定中悲願 (倶舎論)
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『倶舎論』第八の初に有情世間を明して、「地獄等の四及び六欲天と並に器世間と是を欲界と名つく』と云ふ。地獄・餓鬼・畜生・入趣の上に四天王衆天二十三天・夜摩天・撫晒臭・多天樂繰欠化天・他化自在天の六天が膚一つて、四天王衆と三十三の繭一天は地居天で須彌山の層級に住し、夜摩天以上は室に依る宮殿に住して室居天と稻される。この上に色界天が有る。同巻に云く、
此の欲界の上に庭に十七有り。謂はく三静慮庭に各三有り。第四静慮腱に猫り八有り。蕃と及び有情を総じて色界と名つく。
と十七天の名を出しである。次第にこれを圖せば左の如ぐになる。
8色究寛天
7善見天
6善現天
5無熱天
4無煩天
3廣果天
2輻生天
1無雲天
3遍
2無浮天
量澤天
澤天
3極
2無
1少光量漂光天夫
3大梵天
2梵輔
1梵衆天
初静慮の梵とは廣善の所生なるが故に梵と云ひ、この梵の勝れたるを大梵と云ぴ、大梵所有所化所領なれば梵衆と名づけ、大梵の前に於て行列し侍衛するが故に梵輔と名づける。
第二隷慮の光と云ふに就て、最初の天盈光明少ぎが故に少光と云ひ、次第に増して無量光極光浮と云ふ。第三静慮の浮とは意地の受樂を指して云ふのであるが、劣れるより勝れたるに就で名とするのである。下三薄慮は雲を所居の地とするが馬第西齢慮は雲を地としないので最初の天を嶺更に無雲と名ケけるのである。勝幅有る異生の生、すべぎ所なるが故に輻生天と云ふ。果報廣くして勝れたる故に廣果天と名づけ、第四灘慮に於て凡夫の生じ得べき最も勝れたる庭である。欲界の苦はもとより色界の樂をも離れて、身心を煩はすもの無き天なるが故に無煩と名づけ、雑修静慮の上中晶の障を伏除して、依も虚も共に無く熱憐を離る等に依つて無熱と名づけ、上品の雑修齢慮を得ばこの天の果徳現はれ易きが故に善現と云ぴ、難修静慮の蝕障微小で見ること極めて清徹なるが故に善見と云ふ。雑修静慮とは無漏の力を以て有漏の定を助けて、有漏無漏の静慮を雑へ修するを云ふ。無煩天以上は雑修静慮に依らざれば感じ得ないのである。色究寛天とは色界天最後邊に在る最も勝れたる腱である。第四静慮の中無煩天以上は不還果の聖者の生する天で、浮身の所居、滞者の所居なるが故に澤居天と云ぴ、五天有るが故に五澤居天とも呼ぶのむのである。色界天の籔に就ては十六天説十八天説二十一天説等諸説有るが、『倶舎論』は十七天説を用ふるのである。
『法藻足論』第八に、
云何が空無邊庭定の加行、何の加行を修して空無邊虚定に入る。謂はく此の定に於て初めて修業する者は、先づ慮に思惟して第四静慮を鹿苦障と爲すべし。次に鷹に思惟して空無邊庭を静妙離と爲すべし。彼れ爾の時に於て、若し心散鼠し飴境に馳流して一趣なる能はず念を守つて一縁に佳せし空無邊庭定を修する能はす、此れを齊つて未だ空無邊庭定の加行と名づけす、亦未だ空無邊庭定に入ると名づけす。彼れ若し爾時自心を撮録し、散蹴して蝕境に馳流せぎらしめ、一能く一趣にして念を一縁に佳せしめ、室無邊庭定の相を思惟し修脅す。是の如く思惟して護勤精進し、勇健勢猛熾盛にして制し難く働意息まざる、是を空無邊庭定の加行と名づけ、亦室無邊虜定に入ると名つく。彼れ此の道に於て已修習多修習を生ずるが故に、便ち心をして住.し等住し近住し安せしめ一趣の等持にして二無く退無し。此れに齊りて名づけて已入空無邊庭定と爲す。叉此の定中の諸の心意識を空無邊虞定の倶有の心と名づけ、諸の思、等思、乃至心意業を造るを、空無邊虞定倶有の意業と名づけ、諸の心勝解已勝解・當勝解を空無邊庭定倶有の勝解と名づけ、又此の定申の若しは受若しは想乃至若しは慧等を空無漫庭定倶有の諸法と名つく。叉は空無擾虞定と名つくゆ一切種の空無邊礎を超ゆとは、謂はく彼れ爾の時、空無邊慮の想に於て超越し、等七く超越するが故に、超一切種空無邊庭と名つく。無邊の識に入り識無邊腱に具足しで佐すとは云何が識無邊腱定の加行なる、何の加行を修して識無邊庭定に入ゐ。謂はく此の定に於て初めて修業する者は、先づ慮に室無邊庭を思惟して麓苦障と爲すべし。次に鷹に識無邊塵を思惟して齢妙離と爲すべし。蝕は廣く説くこと室無邊庭の如し。
一切の識無邊庭を超ゆとは、謂はく彼れ爾の時、識無邊麗の想に於て超越し、等しく超越するが故に超一切種識無邊虞と名つぐ。無所有に入り、無所有塵に具足して住すとは、云何が無所有腱定の加行なる、何の加行を修して無所有麗定に入る。謂はく此の定に於て初めて修行する者は、先づ鷹に識無邊髭を思惟して鹿苦障と爲すべし。次に鷹に無所有庭を思惟して静妙離と爲すべし。蝕は廣く説くこと室無邊麗の如し。
一切種の無所有庭を超ゆとは、謂はく彼れ爾の時、無所有虞の想に於て超越し、等しく超越するが故に超一切種無所有虞と名つく。非想非非想麗に入つて具足して住すとは、云何が非想非非想廣定の加行なる、何の加行を修して非想非非想虞定に入る。謂はく既の定に於て初めて修業する者は、先づ鷹に無所有麗を思推して鹿苦障と爲すべし。次に懸に非想非非想腱を思惟して灘妙離と爲すべし。蝕は廣く説くこと室無邊腱の如し。
四無色の立名に就て『倶舎論』第二十八に「空無邊等は空等を縁すゐに従つて別名を得るやしと問うて、「爾らす」と答へ、云何ぞ」と重ねて問ろて、
下の三無色は其の次第の如く、加行を修する時、無邊の室と、及び無邊の識と、無所有とを思ふが故に、三の名を建立す。第四の名を立つるは想の昧劣なるに由る謂はく賜勝の想無ければ非想の名を得。昧劣の想有るが故に非非想と名つく。加行の時にも亦是の念を作さく、諸の想は病の如く箭の如く纏の如しと、若し想全く無なれば便ち痴闇に同じ、唯非想非非想の中に、上と網違ぜる寂静の美妙なる有りと錐も、而窓此の加行に就て名を立てざることは、若し詰つて何に縁つてか加行に是の如きの念を作すと言はゞ、必す答へて彼の庭に於ては想昧劣なるを以ての主故にと言ふべきを以てなり。此れに由つて、昧劣の故にとは、是れ立名の正因なめ。