古典派と呼ばれている人たちの中にはトランスサタニアンをチャートに取り入れるだけで目くじらを立てたり、自由な象徴解釈に対し目の敵のように怒りをあらわにしたりするそうですが、探査機が冥王星まで行くような時代に古い考えに縛られるというのは、それこそ時代錯誤のような気がします。
プトレマイオスなど昔の占星術家は、その時代の最先端を行っていた人たちでした。天文学、科学はもちろん、医学、地質学などあらゆる学問の最先端を担う人物であったはずで、だから占星術は古典ではなく最先端の技術であったわけです。
ということで、「天文学でも科学でも新しい発見があった場合、占星術もそれらに見合った象徴を直ちに取り入れるべし」というのが私の考えです。これまでもそのようにして占星術は発展してきたからです。
それと同時に、もうひとつの考えもあります。
象徴とは人の集合的意識、集合的無意識が作り出すものですから、多くの人が情報なり、イメージなりを共有した時点で、それはもう既に時代の知的財産として固定されていくのではないか(最後の固定、風サイン、水瓶座)とも考えられます。
古典派よりモダン派が多数派を占め、その意味や役割が社会に浸透した時点で、その構造なり象徴言語は、時代に合うように書き換えられたのではないか、コンテンポラリー=時代をともにするという考えのもとに確立したものとして受け入れざるを得ないのではないかと考えてしかるべしです。
一方で、Kさんが書いてくれているように伝統占星術には美しい構造があるということも私は大きく同意します。
私もエッセンシャルディグニティやアクシデンタルディグニティといった古典から続く考え方を大切にしていますが、それは占星術の構造をとてもシンプルに説明してくれているからです。古典を学ばないとわかりえない理解というのもたくさんあります。ボイド、バイアアコンバスタ、コンバストといった考え方もそうです。
古典の技術は、ホラリーチャートやコンサルテーションチャートのようにある特定な時期やテーマを読んだり、トランジットなど動きのあるものを読んだりするのに向いています。
生きた天体のエネルギーを利用し、動きのある鑑定をするのに向いているということ。つまり、ネイタルチャートのような固定されたチャートで利用することには向いていないということになります。
古典の考え方が機能しないものもあるし、機能しても使いにくいものもあるし、そもそも現代の文脈にはそぐわないものもあるし、どんなに高尚で美しいものであっても現場で使えなければ、“知識”“技術”としては意味がないということでもあります。
アカデミックな学問=9ハウスではなく、現場で使える知識=3ハウスと技術=6ハウスにまで落とし込めなければ知識は形而上のまま、知識は地上化されずに終わっていくかもしれません。
自分がどのような技術でどのように役立てていきたいのか、ただの研究や興味なのか、それとも現場で生身の人間の生きた問題を扱いたいのか、それによって使う技術や象徴、言葉は大きく変わるかもしれません。