以下は、智顗の『佛説觀無量壽佛經疏』の該当部分を和訳したものです。内容が非常に深遠で哲学的な教理を含むため、分かりやすく、かつ可能な限り忠実に訳しました。
和訳
仏の智慧とその啓示
もし仏が世に出現するならば、智慧の太陽をもって真理を明らかにすることができる。そして三宝(仏・法・僧)の光明を知り、甘露の門を開き、十号(仏の十の尊称)の妙なる味を知ることができる。仏の説法によって人々は教えを理解し、心が悦びを得る。たとえば、須達長者が仏の名前を聞いたとき、全身の毛が逆立ったように感動したように、闇夜が突然明るくなり、大きな関門が自然に開かれた。これが「名字仏」(仏の名を知ることによる信仰)の力である。
観行仏(仏を観じる修行)
仏の相好(優れた身体的特徴)を観じることは、金の像を鋳造するように心で仏を描き出すことである。心は仏の美しい姿を捉え、目でその姿を見るように集中する。目を開けても閉じても、光明の中でも暗闇の中でも、仏の姿は常に離れることがない。観じる者は仏世尊(仏陀)の大きな特徴から小さな特徴へと流れるように見ていく。それは、巨大な劫水のように果てしなく広がり、目を巡らせて見渡すと、どこも仏界で満ちていることを知る。一仏を念じることは十方の仏を念じることと等しく、現在の仏を念じることは過去・現在・未来の三世の仏を念じることと等しい。一つの身体、一つの智慧、力、無畏(恐れなき心)もまた等しい。仏の色身(物理的身体)、法門(教え)、実相(真理)を常に念じ、念じることに途絶えがない。これを「観行仏」と呼ぶ。
相似仏(仏の相似の境地)
仏の相好を念じ、仏と相似する境地に至る者は「相似仏」と呼ばれる。これは、仏を観じる修行が相応し始めた状態を指し、たとえば鍮(金に似た合金)が金に似ているようなものだ。また、瓜が瓠(ひさご)に似ているように、完全ではないが似通った状態である。これは、たとえば火が最初に暖かくなり、海が次第に穏やかになるようなものである。水の性質が冷たいことは飲んで初めて知るように、喉が渇いて井戸を掘らなければ意味がない。つまり、聞いて理解し、修行を実践することが必要だ。
分証仏(部分的な悟りを得た仏)
「分証仏」は、修行の初期段階で部分的な悟りを得た者を指す。一つの心を発すると、その心はすべての功徳・智慧・境界を発し、すべての仏法に通じるようになる。これらは前後も同時もなく、すべてが一心の中で得られる。こうして修行者は如来の妙なる色身(荘厳な身体)を得、秘密の教えを開き、あらゆる姿を示しながら衆生を導く。
究竟仏(完全なる仏)
「究竟仏」は、最も高い悟りの境地であり、唯一「仏のみが仏を知る」とされる。これは諸法の実相を完全に究め尽くした者であり、その智慧と覚りは無限に広がり、圓満(完全無欠)である。たとえば、満月が十五夜に達し、星々の王がその中心に輝くような状態だ。この究極の仏には無限の徳があり、それゆえに無限の称号を持つ。
三観と一心三観
智顗の教えでは、「三観」(空観・仮観・中観)が説かれる。
- 空観:現象の本質が空(実体がない)であることを観じる。
- 仮観:空であるがゆえに現象が成立することを観じる。
- 中観:空と仮の調和である中道を観じる。
「一心三観」とは、一つの心の中で三観を同時に行う修行法である。これは「因縁によって生じるすべての法は、即空・即仮・即中である」という教えに基づいている。
無量寿の意味
「無量寿」とはインド語で「アミターバ」(阿弥陀仏)のことであり、本質的には身体や寿命、量といった限定を超越した存在である。しかし、世間の理解に合わせて三身(法身・報身・応身)や三寿、三量などの形で説明される。
- 法身:法性そのものを身体として見る。
- 報身:修行の結果として得られる身体。
- 応身:衆生を救うために現れる仏の姿。
これらはすべて法性の働きであり、仏の無限性を示している。
結論
この部分は、『佛説觀無量壽佛經』の教えを深く掘り下げ、仏の多様な側面(名前、修行、悟り、無量寿)を詳しく解説しています。また、三観の哲学や仏教的な修行の階梯を具体的に示しつつ、仏の普遍的な救済力を説いています。