パーリ経典に説かれる「九次第定」の成立と構造 藤 本 晃
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/53/2/53_2_891/_pdf/-char/ja
個々の禅定のほとんどは、仏教起源のものとは言えない。それは勿論、後から仏典に付加されたのではなく、仏教興起以前からインドで知られていた禅定を、仏教が取り入れたのである。このことは、インドの他宗教の典籍には説かれないが、他ならぬパーリ経典で、釈尊自身が語っている。
釈尊自身、まだ在家の王子であった頃に色界初禅に入って楽しんでいたことが、中部36,85,100に 説かれている。
色界第三禅の説明には必ず「聖者たちが『平安(upekhako)で、気づきを具えて幸福でいる』と語 る第三禅」と付記される。釈尊の同時代に実際に、色界第三禅に達してその内容を語ることがで きる仏教外の「聖者たち」がいたことが推測できる。その一例は、「絶対の楽」(ekanta-sukha,解脱)を主張するサクルダーイである。中部79で釈尊は彼に解脱に至る実践として色界四禅を順次 説いたが、第三禅を説いた時サクルダーイが、それは実践ではなく「絶対の楽」自体だと主張した。釈尊がそれを否定し第四禅を説こうとした時、サクルダーイの弟子たちは、
ここで我々は師の教えと共に破滅した。我々はこれ[第三禅]より勝れた、より良いものを知らないのだ。(MNvol.Ⅱ,p.37)
と大声で嘆いた。このことから、サクルダーイとその弟子たちは色界第三禅まで体得していて、そ れを最上と思い込んでいたことが分かる。
釈尊が出家してすぐ、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二師に順次に学 び、それぞれ無所有処と非想非非想処を体得したことが、中部26,36,85,100に、両禅定の学びの経 緯が全て同じ形式で説かれる。両師とも釈尊を「二人で一緒に、この弟子たちを導きましょう」と誘っているので、彼らはそれぞれ、自分の達した禅定を最上のものと考えていたことが窺える。し かし釈尊だけは以下のように見切って、両師の下を去っている。
この教説は、厭離に導かない。離貧に、滅に、寂止に、勝智に、正覚に、涅槃に導かない。せいぜい無所有処への往生に導くだけである。(MNvol.Ⅰ,p.165)
その後、釈尊は六年続けた苦行を捨てて禅定の道に戻り色界初禅から第四禅を経て三明の宿明智、天眼智そして悟りそのものである漏尽智に順次に達して無師独悟しているので、「九次第定」の最 後の一つ、悟りの境地である想受滅だけは、釈尊が初めて達した、仏教オリジナルの「禅定」であ ると言える。
以上のように色界禅定も無色界等至も、釈尊以前・以外にも様々な行者によって実践体得されてい たことが、他ならぬパーリ経典によって明らかになった。しかしながらそのような各禅定を、釈尊 が初めて達し得た想受滅を中心に「九次第定」として体系化したのは、パーリ経典の記述通り、釈 尊自身であったと考えるのが自然であろう。想受滅は釈尊以前に遡れず、一方、散文パーリ経典の 随所に説かれる「九次第定」はその内容、名前、順序の全てにおいて一致しているため、経典成立時には既に確定していたことが知られるからである。仏教以外の行者たちは自分の達した禅定が最上と思っており、想受滅を知らなかったのであるから、「九次第定」を確立していたとは考えられ ない。
色界第四禅について 池田 練太郎
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/印度学仏教学研究/印度學佛教學研究第40巻第2号/Vol.40 , No.2(1992)089池田 練太郎「色界第四禅について」.pdf
先にみたように、第三禅までは、人間が普通の心身のままで、精神を集中して思惟行動を行っている状態であったのに対し、この第四禅及びそれ以上は呼吸が働かないとされることからみても、むしろ死に近い状態を呈していると見なしうる。-964-
釈尊は幼少期に初禅の状態を体験したということが示されている6)。 このエピソードが事実であるなら、出家前の釈尊が初禅を体験したということからも、後世色界の四禅とされるに至った禅定の少なくとも最初の階梯の本質は、やほり精神を集中して思惟に没頭することに起因する一つの状態であった可能性が高いと推察されるのである。
また、釈尊は出家後まもなくアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタを訪ね、それぞれの無所有処定と非想非非想処定を体験した後に捨て去ったと伝えられるが7)、このことはやはりこれらの禅定を退けた釈尊の立場を明確に示すものと見てよいであろう。さらに、釈尊は2カ月間、人を近づけずに一人で禅定を修したことが伝えられているが8)、そのときの禅定は、持息念(anapanasati)が中心であったとされている。 この他にも3カ月に亘る禅定が報告されているが9)、いずれもその間に比丘たちとの交渉があったとされていることからみて、滅尽定のような死に近い禅定を実践していたとは見なし難い。-963-
6) Mahasaccaka-sutta, MN., I, pp. 246. cf.水 野弘元 「原始仏教 と目本 曹洞宗」(『道
元禅 の思想的研究』1973年, 春秋社刊)pp. 53-58, 69-73. 以下, 註(7)(8)(9)に つい て
も同様。
7) Ariyapariyesana-sutta, MN., I, pp. 163-166.
8)『 雑 阿含』巻29; 大正2, 207a.
9) SN, V, p. 13; SN, V, pp 325-326; Vinaya, I, p. 169; Vinaya III, p. 230. etc,
説一切有部の等至の体系における静慮の重視 村上 明宏
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/MD40138678/kbk048-16-murakami.pdf
Majjihma-Nikāya(以下MN.)『聖求経(Ariya-pariyesana-suttanta)』にお
ける「アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの伝承」では釈尊が無碍安穏の涅槃を求め、無所有処を実践成就しているアーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、その無所有処を体験して捨て去ったと伝承される(44)。そして、無所有処を捨て去ったその後に、非想非非想処を実践成就しているウッダカ・ラーマプッタのもとを訪れ、その非想非非想処を体験して捨て去ったと伝承される(45)。無碍安穏の涅槃のためには、無所有処も非想非非想処も十分では無い、ということである。
ここで四無色定の中でも無所有処・非想非非想処についてのみ言及されているが、この二つに関しては四無色定の中でも上地とされているから、この無所有処と非想非非想処を否定的に見る見解は説一切有部が無色定より静慮を重視する根拠の一つであると推測される。
2-3.理由その⑶――第四静慮が「不動」とされることに由る――
MN.『聖求経』において、釈尊が無所有処・非想非非想処を捨て去ったその後、マガタ国を遊行し、ウルヴェーラーのセーナーニーガマに入って密林に坐り(46)、無碍安穏の涅槃に至ったとされる(47)。そこでは、無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定において、生(jāti)・老(jarā)・病([P]byādhi,[S]vyādhi)・死(maran・a)・愁([P]soka,[S]㶄oka)・煩悩([P]san・kilesa,[S]sam・ kle㶄a)の過患(ādīnava)を知って、無碍安穏の涅槃に至ったとされる。そして「私の解脱は不動である(akuppā me vimutti)」という智([P]Jān・a,[S]jñāna)と見([P]dassana,[S]dar㶄ana)が生じたと説かれる。無所有処・非想非非想処を厭って入った禅定によって無碍安穏の涅槃を得たということである。そして、解脱智見に至って「不動(akopya)」であると認識したのである。
この「不動」に関しては、第四静慮も「不動(āneñjya)」であるとされる。しかし、その「不動」については「無碍安穏の涅槃を得た」という場合、ʻakopyaʼであり、「第四静慮の不動」は ʻāneñjyaʼ である。 第四静慮における ʻāneñjyaʼ の「不動」についてはAKBh.「世間品」において、次のように説かれる。
第四静慮は内災(ādhyātmika-apaks・āla)を離れたものである(rahitatva)から不動(āneñja)であると世尊によって説かれた(48)。(AKBh. p.190.23)
AKBh.「定品」においても、同様のことが次のように説かれる。
また、三つの静慮は動揺を伴う(sa-iñjita)と世尊によって説かれた。災患を伴う(sa-apaks・āla)からである。
しかし、八つの災患(apaks・āla)を手放したもの(muktatva)であるから、第四のもの(第四静慮)は不動(āniñja)である(49)。(11ab)(AKBh.p.441.10-12)
初静慮から第三静慮までは「動揺を伴う」けれど、第四静慮には八災患が無いから「不動(āniñja)」であると説かれる。この ʻāneñjyaʼ で示される第四静慮の「不動」は身・心ともに不動であることを意味すると考えられる。それは第四静慮において「不動」の語として用いられる ʻāneñjaʼ ʻ āniñjaʼ ʻāneñjyaʼ の語形について、AKV.では、次のように説明されるからである。不動(ānejya)とは、㲋ej-、震える(kampana)というこの語根(dhātu)より、ānejyaというこの[語]形である。しかし、āniñjya と誦すとき、㲋in・g- ‒という別の語源(prakr・ti)のこの[語]形であると見るべきである(50)。(AKV.p.344.3-5)
仏教ウェブ入門講座 禅定とは?
https://true-buddhism.com/practice/reflection/
実際、ブッダが29才で出家された後、何人かの先生に禅定を習われました。
その時、アーラーラ・カーラーマに学んですぐに 無所有処むしょうしょ定を習得されます。
ですが、満足されずに別の先生を捜し求められました。
そしてやがてウッダカ・ラーマプッタに師事して禅定の中では最高の境地である非想非ひそうひ非想処ひそうしょ定にたどりつかれます。
それでもブッダは満足されずに、真の悟りを目指して旅立たれています。
ですがもはや最高の禅定を極められたブッダに教えてくれる人は誰もなく、ブッダは仏のさとりを無師独悟されたのでした。
ですから、ブッダの体得された涅槃(仏のさとり)は、四禅八定の延長線上にあるのではなく、まったく別の境地です。