「真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」が正しい。直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無く、幸村と署名された古文書が二通現存しているものの、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならず、真田左衛門佐の諱は信繁であったと判断できるからである。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であるとされる。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。
しかし「幸村」という名前に説得力があった。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字であり、「村」についても徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。俗伝で幸村の佩刀であったとか介錯に村正を用いられたという話があり、すべて誤伝であるのだが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた。このため国学者でもある徳川光圀がわざわざ「幸村というのはあやまり也」と書き記したほどである。
時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したので、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。 大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。
篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが初めて否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する。
イマサラタウンの二乗
以下芹沢鴨スレ
それはだれでも知ってる。
真田丸