大河ドラマも終盤ですね!
今回は歌人としても名を残した
鎌倉右大臣実朝の史跡を訪ねます
26歳という若さで非業の死を遂げた三代将軍実朝、由比ケ浜の稲村ケ崎寄りに小さな芝生公園があり、そこにこの実朝の歌碑があります。
この場所は私のジョギングでの貴重な給水地点になっているので、歌碑は何度も目にしています。今までは「三代将軍実朝の歌なんだ〜!」というくらいの感想でしたから、今度行く時はしみじみと味わってきたいと思っています。
調べてみると、実朝の感性はずば抜けている事が分かりました。芭蕉は、弟子に、「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣(実朝)ならん」と答えたと伝えられています。知名度の高い大歌人に煩わされない純粋な鑑識を持つ芭蕉に選ばれた歌人だという事ですね。
歌碑の台座は船を、歌碑板は帆を、手前は波をあらわしています。
歌碑がなぜ船の形をしているのかというのは、かつて大船を建造し、当時の中国(宋)に渡ろうとしていた実朝の夢を形にしたものです。
歌碑にはこの歌が刻まれています、「世の中は つねにもがもな 渚こぐ あまのを舟の 綱手かなしも」。
これは、「世の中がこんな風にいつまでも変わらずあってほしい。漁師の小舟が綱で陸から引かれているような、ごく普通の情景がいとしい」という趣旨と言われています。「昨日の友は今日の敵」を地で行く非情な時代にあって、平和を願う将軍の優しい心性が見て取れるのと解釈です。
実朝の人柄がそう思わせているのでしょうが、一方で日本における近代批評の先導者であり鎌倉文士としても名高い小林秀雄は、この歌をこう評しています。
「あまり内容にこだわり、そこに微妙で複雑な成熟した大人の逆説を読みとるよりも、いかにも清潔で優しい殆ど潮の匂いがする様な歌の姿や調の方に注意するのがよいように思われる。実は、作者には逆説という様なものが見えたのではない、という方が実は本当かも知れないのである。」
ちょっと難しい説明かな?(苦笑)
要するに、みんなが思い込んでいるような感傷的な歌じゃないと指摘しているワケですね!
明治時代の俳人、歌人の正岡子規も歌は写生(実物・実景をありのままに具象的に写し取ること)を重んじなければいけないと説いています。
みなさんはこの歌を詠んだ実朝の気持ちをどう思われますか?
実朝は心にしみる目の前の景色を純粋に自身の言葉で表現していたのではないかと私は思っています。彼にとって歌を詠んでいる時は将軍の責務を忘れられる、安らぎのひとときだったのではないでしょうか。
※写真はひと昔まえ、歌碑のある公園を走っている私です。現在ではありません(笑)