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『異国の窓から』が手に入ったので、ニュールンベルグだけ読み終わったところ。
こちらは、小説。『もう一つのヨーロッパ』は、歴史に造詣のあるルポライターの書いたコラムを集めたもので
こちらは、エッセイに近い印象を持った。小説家らしく、街の描写はキレキレで、行ったことのない土地でも親近感を沸かせる。
ニュールンベルグの章を読んでアレッと思ったのは、ネオ・ナチズムの動きを人間のエゴと捉えていること。
もちろん、エゴもあるだろうが、ナチズムは思想である。だから、いまだにナチズムの伝播を規制する法律がドイツには存在する。ヒトラー式の敬礼を禁止したり、ヒトラーの映像を映すのを禁止したり。
一方、確固たる思想のなかった日本のファシズムは、「無責任の連鎖」と言う言葉がぴったりであり、言ってみれば、ノリで戦争をしてしまったと言う感じ。これもエゴと言うよりも、その場の雰囲気。
ナチスの幹部はニュールンベルグの裁判で、ユダヤ人の殺戮等、何の後悔もない、と言い放ったのは、その思想故、当然なんだろうが、東京裁判では、誰の意思で戦争が始まり拡大したのか分からず、尋問の答えに裁判官がポカーンとしたとの話がある。
エゴとサラっと流してしまう方が小説としては読み易いが、ナチズムみたいな思想を取り上げるときには、表現としてどうかと思った。
https://csc.hus.osaka-u.ac.jp/pdf/thesis/senba_whole.pdf
から引用。(丸山とあるのは、丸山眞男先生のこと)
「無責任の体系」論
日中戦争、太平洋戦争期に大日本帝国を指導していた当時の軍部や官僚に政治的責任が
あるのは自明であるが、丸山は彼らにそれらの責任意識が全く欠如していたことを指摘し、
その構造を分析している。
丸山は「超国家主義の倫理と心理」(1946)という論文において、日本の戦争指導者たち
の責任意識についてナチスとの比較の中でこう論じている。
このようにして、全国家秩序が絶対的価値体たる天皇を中心として、連鎖的に構成
され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する、価値のいわば漸次的
希薄化にあるところでは、独裁観念はかえって生長し難い。何故なら本来の独裁観
念は自由なる主体意識を前提としているのに、ここではおよそそうした無規定的な
個人というものは上から下まで存在しえないからである。(中略)意識としての独
裁は必ず責任の自覚と結びつく筈である。ところがこうした自覚は軍部にも官僚に
も欠けていた。
ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関す
る明白な意識をもっているにちがいない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争
を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当
たらないのである。