本土の山では紅葉もピークを越えたころだろうか。それとも、もう早くも雪遊びに興じている人もいるんだろうか?どちらにせよ、こんな月明りの下ならば相当に美しかろう。僕らの配属された島にはそんな洒落たものはなく、波の音が聞こえるだけ。一人分の影に、もうひとつ小柄な影が合流する。
「こんな時間に悪いね、村雨ちゃん」
「はぁ。なんですかぁ、提督。本当ですよ、しかも外に」
ただいま11月5日フタサンサンマル。消灯時間後。そんな時間に副官を呼びつけておきながら、言葉と心の準備ができていない。世間話の話題を後出し的に探しても、星の間を目が滑るだけ。その間に、彼女はコートの袷を直して、僕を待つ。こちらは具合のいい言葉は出ずに、ただ誤魔化しに似た散歩のお誘いが限界だった。
「えーっと……あのさ」
「もう、なに?なんの相談ですか?」
「寒くなってきた、よね」
「本当、そうね。外だし。編み物でもしようかしら」
「編み物できるんだ?」
「えぇ、出来るよ。ちょっとだれど」
「そっかー……すごいね。釣りも上手だったね」
「まぁ、器用なのよね。ちょっとだけ」
「ちょっとってレベルじゃないと思う。すごいよ」
毎年の遠洋漁業の護衛としても十分な成果を上げてくれているが、この埠頭の釣り師娘の中でも人一倍の釣果を上げている印象だ。あれは艦娘ではなく、彼女個人の個性。そういう何気ない一面を見るたび、彼女たちが兵器ではなく少女であるという思いが強くなる。そういった部分をこそ大切にしていきたい……という麗句を盾にしたくはないが、あの部屋には勲章も褒章も未だに少ない。これは僕の不徳の致すところだ。
「それは光栄です。……それで、なんのご用でしたっけ?」
「うん……」
「?」
話題は行って帰って、立ち返ってしまった。村雨ちゃんは和んだようだが、僕だけは再び緊張し始める。それを感じ取れないほど、並ぶ彼女は馬鹿じゃない。少し跳ねてリズムをとるのは、それを解すためなんだろうか。
残念ながら、丁寧に結われた髪……消灯後、姉妹に黙って部屋を抜け出す際に結い直されたであろうツインテールが舞う様に目を奪われる余裕もないんだけど。
「何なに、言いにくいこと?備蓄は特に減ってない、から……何か方針の変更でも?」
跳ねた割に切り出してくるのは指揮全体の問題なあたり、根は真面目である。
「いや、特にその予定はない」
「じゃあ……あ、昼に届いてた包み?上から何か言われちゃった?」
「いや、みんなのおかげでそういうことはないよ」
「仲良しで何より!……あ、もしかして恋愛相談?提督その辺疎そうだもんね。だれだれ?」
「違う違う!」
「あら、つまんない。……誰かと喧嘩、しちゃった?」
「ううん。そんなことはないよ。大丈夫」
真面目半分、ふざけ半分だった彼女が、急に足を止めて、眉根を寄せる。純粋に心を割いているのがわかる。その姿と心の優しさが、何よりもいとおしくて、殊更安心できるような言葉を選び、微笑む。うまく笑えていただろうか。
「ふぅん。じゃあ何ですか?」
「……」
「な・ん・で・す・か」
心配の跳ね返りなのか、僕をまっすぐ見たまま語気を強める。眉の象る感情は、心配の中に焦れた呆れが混じっていて、逃がさない意思が滲む。
ここらが誤魔化しの限界。伝える覚悟を、固めなきゃ。切り出せ。
「……村雨ちゃんはさ、夢ってある?」
「夢?……そうねぇ、やっぱりみんなで無事に勝って終わりたいわよね」
「うん。そのあと。鳳翔さんはお店を開きたいって言ってる。そういうやつ」
「終わった後……終わった後か」
「そう。後の話」
「うーん、ちょっと考えたことなかったかもしれません。またみんなと話してみるね」
「……そうだね。急にごめんね」
「いえいえ。こちらこそ、張り合いのない答えでごめんなさい」
埠頭の先から、建物側へ向く。すなわち帰投で、会話の終わり。彼女が一歩ずつ、ゆっくり遠ざかる。ポケットの中で手の感覚が失せていく。心拍数が下がっていく。指先に当たる硬い感触で、頭の中で何かが弾けた。
「……あの!」
もう一度心臓を叩き起こす。心を熾す。
「!……はぁい?」
少しだけ驚いて、すぐに笑顔で振り向く彼女。緊張が目がいかれて、逆に彼女が大きく見えてきた。
「昼に来た包み、あれ、僕個人の買い物なんだ」
「はぁ」
喉が渇く。海の匂いが鼻につく。
「もし!……もし、僕が、僕らが一人と欠けず終戦まで勝てたなら」
彼女の瞳に吸い込まれる。困惑もあるが、静かに待ってくれている。波も風も、すべてのノイズが消える。
「これを。受け取ってくれますか」
かじかんだ指で、夜色の箱を開ける。月明りを受けて銀が輝く。
「……指、輪?」
「僕の夢の一部に、なってほしいんだ」
心臓が破裂しそう、という表現は本当に陳腐で、使いまわされている。小説で読んだ、脚本で見た、軍属になってから何度も思った、そのどれとも違う。痛いほどの脈動。心臓から下は存在しない。地につく足がない。腕もかろうじてついているだけ。乾ききった気管を上って、目と頭が熱い。
「ダメ、かな」
「……ねぇ、提督」
そっと香りは暖かく、声はやさしくもはっきり聞こえる。そこで初めて、大きな彼女は目の錯覚ではなく近くにいただけということを知る。目線は、海を見ている。耳が紅潮しているように見えるのは、今度こそ錯覚だろうか。
「貴方は、いつもだらしなくて、気も弱くてさ」
「うぐ」
「センスも微妙にずれてるし、あんまりカッコよくもない」
「……はい」
言葉一つ一つが心に刺さる。指輪の箱を仕舞う指先が冷たいのかすらわからない。熱のすべてが心に集まっていく。いかん。泣くな。
風がひとつ、強く吹き抜けて、獣のように鳴り叫ぶ。再び仕舞い込んだ手まで冷やされて、全身余さず凍りつくようだけれど、些細な事だった。群れの風の唸りが止んで、小さな声がここまで届く。
「だけど、好き」
声にならない声が、吐息のように抜けていく。聞き返すこともできずに、耳が拾ったそれを反芻する。好き。
「一緒にいるの、案外楽しいわ。相性いいみたい。弟みたいで、お兄さんみたいで、安心できた」
月明りを浴びる彼女は、こちらを向いてはくれない。海と空と、彼女。それだけで一枚の絵画のよう。
「でも、違うのよね。きっと提督が言ったのは、もっと……もっと近いものでしょう。……想像したらね、夢の中の私、笑顔だったの」
波の音は絶え間ない。彼女の瞳にはそれが映っているんだろうか。そのきれいな瞳には。斜め後ろからでは見えない瞳には。
「『白露型』としての私は、もちろん好き。誇りよ。『古株』として、いつも頼ってくれるのも嬉しかった」
風は弱く、穏やかになった。雲は薄く、星はまばゆく、彼女の髪は控えめに揺れる。
「でも貴方は、『私』がいいって、言ってくれたのね」
「はい。村雨ちゃんと一緒が、いい」
「……嬉しいっ」
振り向いた彼女は、今まで見たことのないような笑顔で、誰よりも美しい涙の粒を湛えていた。見惚れる僕へそのまま飛び込んできて、僕は抱きしめるのが精いっぱい。
熱が伝わる。熱を伝える。鼓動と、涙の粒が混じりあう。視線が合えば、あまりの近さに赤くなるけれど、逃げ場はない。引き合うだけ。宝石のような一瞬。二度以上は、今の僕らには危険な蜜。お互いにそう思って、片手だけを繋いで離れた。だけど、分かち合った全ては、遍く心と体に宿っている。言葉にしなくてもわかるから、頷いてゆっくり寮に帰る。
いつか、似たような季節に同じことがあったな、とぼんやり思い出すのは、しばらくは後のことだった。
月は高く、波は静かで、星が一筋流れていった。日付はもう、変わっていた。
彼女の指は戦場に出ていたとは思えないほど白く、あの頃のなけなしの俸給で買った簡素な指輪なんて、むしろ邪魔になりそうなほど美しい。もっと綺麗なものを贈ってあげたいと言う度に固辞されている。
僕の指は彼女のように美しいわけではないけれど、不慣れな当時は指輪をつければ落ち着かないところはあった。
戦闘があった。宴会があった。訓練があった。喧嘩があった。仲直りがあった。終戦があった。新しい生活があった。色とりどりの時間が流れた。
その中で僕らは、あの夜から一日たりとも指輪を外していない。きっと、これからもそうなのだろう。
問うまでもなく、そう思えるんだ。
「村雨ちゃん、いつも本当にありがとう」
「なぁに、急に。どういたしまして。ね、―――くん」
「ん?」
「こちらこそ。いつも、ありがとね」
「こちらこそ、どういたしまして」
「うふふ。あ、ワイン来たよ」
「村雨ちゃん。愛してます」
「……えぇ。私も、愛してます。―――くん」
「これからも、よろしく」
「こちらこそ」
「僕らの夢に」
「「乾杯」」
~
「今頃おいしいもん食べてンだろねぇ二人は。ほい、どうぞ」
「おとと。ありがと、江風さん!」
「一年に一度だし、こういうのもいいと思うな。さ、準備はいいですか?」
「もちろんさぁ!早く、肉!肉!」
「こーら、朝霜ちゃん、お野菜も食べないと一番にはなれないからね?」
「そうそう。ちゃんと食べないとお肉焼いてあげないっぽい」
「デザートもなし、だからね」
「うぅ…食べます、野菜もたくさん食べますって」
「ふふ、いいお返事です」
「涼風、君もだからね」
「うぇっ!?流れ弾ッ!?」
「タイマーよし!じゃ、撮りますよ?」
「こけないでね?」
「もうドジっ子じゃないですから!」
かしゃり。