いつもより水道水が冷たい気がする。秋も深まり、フローリングから寒気が這い上がってくる。
昔村雨ちゃんが自慢していた五本指ソックス、あれって男性用もあるんだろうか。ぼうと考えながら、三人分の食器を洗う。彼女がここにいたならば、お湯じゃないと肌に悪いとか、ちゃんと汚れが落ちないとか、お小言をいただくことになるんだろうけれど。いないからいただかない。いただけないのは当たり前。
冷水をよく切って、ラックに掛けておく。食器の自動洗浄乾燥機も、いずれは導入を考えるべきかな。水仕事が大変な老後とか?それでなくても時短ってことで義姉さんの家で検討していた気がする。大家族だからなぁ。あっちが使っていい感じだったら家族会議に諮ろう……って、どのくらい後になるんだろうね。
鳳翔さんやザラは食洗器を使っていた覚えはないけど、カウンターでお仕事してるからかな。雰囲気づくりの意味が大きいんだろう。
雰囲気。空気。空間を作るのに欠かせないもの。人ひとりいなければ、たやすく壊れるもの。
妙に手足が冷たいのは一人だからだと、タオルで水をぬぐい終わってから気付いた。
僕一人には、この家は大きすぎる。
「あ、起きてましたか」
「えぇ、ちょっとはいい具合」
「お昼どうする?食べれそう?」
「うーん、ちょっとなら。野菜の使い残しがあるから適当に使い切っちゃって」
「わかった」
「掃除もお買い物もしなくていいからね。明日まとめてやっちゃうから」
「それくらいはできるし。今は自分のこと心配してて」
「はぁい。お任せしちゃおっかな」
「濡れタオルとお水置いとくからね」
「……拭いてくれないの?」
「うぐ」
「……ねぇ?」
「……お言葉に甘えて」
村雨ちゃんが、朝起きてこなかった。
それだけなら珍しいけど、異常ではなかった。昨夜は夜遅くなってしまっていたし、本当にぐっすり眠っていたようだったから起こすのは悪いかな、と素直に思った。
結局起きてきたのは、娘たちを送り出してから。抜かりなく炊飯の準備はしてあって、流石は良妻と感心していたところ、いつもより間隔を空けた足音とともに一階へと下りてきた。音に聞いてもおかしかったのに、目にも見れば妙に赤くて、無理に笑っているようで、明らかに様子がおかしかった。不安半分確信半分で体温を測れば、案の定風邪をひいていたというわけである。
自覚症状も少なく、病院に行くほど高熱でもない。ひとまずはゼリーだけ食べさせ風邪薬を飲ませて、また寝なおしてもらった。
家事をしていたり、仕事をしていたり、別々の部屋にいることは少なくないのに、今日は食器を洗うだけで寒々しくなる。思案するだけで恐ろしくなる。十数年一緒にいて、体調不良は初めてじゃない。不良と言ってはいけない気がするけど、産前産後はもっと辛そうだった。鎮守府時代なんて、傷を負ったり寝込んだりは日常だった。
けれど、いくらそんな経験があっても、慣れるものじゃない。村雨ちゃんの、心配をかけまいと笑おうとする、その裏側で困って苦しむあの顔は、できれば二度と見たくない。
そんなことを火より鍋より熱く願ったって、人間、倒れるときは倒れる。運動会の準備やら、ハロウィンのお菓子作りとか、対応とか。加えてハロウィン前には雑貨屋の手伝いもしてたっぽいし、とどめに昨日祝日の釣り堀遊び、ってことか。働き者の嫁を持つと誇らしい、とだけ言っている場合じゃない。
支えるって心に決めなおして一週間も経ってない。不甲斐ない夫だ。心も、鍋も、静かにぐつぐつ。
「おかゆだ」
「朝のご飯が残ってたので。定番かなと」
「ありがと。いただきます」
「はいどうぞ」
「……あったかい」
「いつも、ありがとうね」
「…なにそれ」
「ありがとう」
「……ふふ」
風邪薬を飲んだからといってすぐに良くなるわけがなく、村雨ちゃんはまた眠りについた。
口元をマスクで隠していても、すこし覗く頬が紅潮しているのがわかる。ダブルベッドの真ん中で、ゆっくり寝息を立てていて、安らかな感じ。うなされていないのがいくらかの救いだ。うっすらと流れる汗は、拭いていいのか悪いのか。触れて起こしてしまうのは申し訳ない。だけど、ちゃんと拭いてあげないといけない気もするし、それ以上に触れてしまいたい邪な心が僕の中で鎌首をもたげる。そっと閉じられた目元は優美。透き通った肌はただただ静かで、見ることさえも罪に思わせる。だけど、あるいはだからこそ、彼女を見ていたい。触れてしまいたい。
手を伸ばして、こぼれた呻きに咎められた気がして、諦める。先に食器、洗ってこよう。
「……ん……んーっ」
「おはよ。気分はどう?」
「かなり楽よ。今何時?」
「ヒトハチ…ちょっとすぎてる」
「うっそ、そんな時間!?二人は?」
「アニメのお時間。熱も何もないよ」
「そう……よかった。晩御飯、作るね」
「何言ってんの。寝てなさい」
「……むぅ。どうするの、ピザでもとるの?」
「どうしようかなぁ。義姉さんたちは……呼んでも悪いな」
「そうかしら?可愛い姪っこに会いに来ると思うわよ?」
「ふむ、一応連絡しておくね」
「……ところで、もしかしてずっといたの?」
「わかる?」
「マスクもして飲み物持ち込んで、ノートまで広げてたらねぇ」
「病の妻を放っておけるほど薄情な夫じゃないよ」
「あら、殊勝。……本音は?」
「さみしかった」
「よろしい。てことは、掃除やお買い物は」
「……明日やるよ」
「ふふ、明日のあなたに期待しておくわ」
連絡してから一時間と空けず、非番メンバーから白露義姉さん、春雨ちゃんと海風ちゃんが食品とともにやってきた。いつもほど賑やかにならないように注意を払った結果の人選らしい。睦月と朝霜(と白露義姉さん)がお風呂に入っている間に作ってくれたのは村雨ちゃんのお腹にもやさしいおうどん。大きな机を囲んで、7人で味わう。少し咳もあるけれど、みんなと一緒にいられるくらいに元気にはなったみたいで安心した。これで元気をもらえたかな?
お腹も満ちた睦月と朝霜はいつもより早く寝かせよう。そう思ったのに、今夜はテレビで名作アニメ映画。どうやって言いくるめようかね。いっそ見させて勝手に寝落ちさせた方が早いか。
三人はどうするつもりなんだろう。娘たちに泊っていくようにせがまれて断る義姉じゃないし、断れる義妹じゃない。村雨ちゃんに似た、今朝の村雨ちゃんとは似つかない困り笑顔でこちらを見るものだから、「いてくれた方がいい」と夫婦で歓迎するほかなかった。うつしてしまわないかだけが心配だけど、とりあえずマスクで対応してもらおう。
かくして、当初の狙いよりも少し外れて、暖かく夜は更けていく。明日にはよくなっているといいんだけど。心配だから一緒に寝たいんだけど、心配だから出禁だと既に言われてしまっている。仕方がないから、娘たちの「女の城」にお邪魔させていただこうかな。
村雨ちゃんの風邪ひとつ。それだけで、僕の心はかき乱された。空間の雰囲気の話じゃないけど、僕の中身の核、なのかな。流石に核は言い過ぎだけど、大事な存在なのが改めてわかった。大切にしなきゃ、支えていかなきゃ。助け合って、生きていかなきゃ。
彼女の核に、なれるかな。
「はぁ、それにしても、風邪ひいちゃったか~。ちょっとショック」
「いつもお疲れ様です。そうだ、今度は僕がマフラー編むよ」
「今度、って何年越しよ。ふふ、あなたにできるかしらん?」
「んん……頑張ります」
「ふふ。私はあの子たちの作るから、あなたは私たちの作ってくれる?」
「そだ、一本の長ーいの編むわ。二人用の」
「やぁだ、恥ずかしい。なんか古いし」
「やっぱり?」
「……でも、いいかも。うんうん♪」
「えっ、冗談のつもりだったんだけど」
「たまには冗談みたいなこともいいじゃない?ねぇ」
「わかった。編み物したことないから、教えてね」
「いいけど、その前にお仕事よ?」
「はいはーい!その前に、元気になってね」
「ん、わかったわ。おやすみなさい」
「おやすみ」