F22044
2024/12/13 (金) 00:59:07
da155@285ee
この事件は、証拠の乏しさや供述の矛盾が中心的な問題となり、それらをどのように評価すべきかが司法の在り方を問い直す事件となった。特に正岡少年の供述が、他の園児の証言と連動しており、事件の根幹を成していた点が特徴的であった。しかし、正岡少年の「沈黙していた理由」や、供述内容が尋問過程でどのように形成され、変化したかを精査すると、証言の信頼性には疑問が生じていった。主尋問と反対尋問での内容の落差は、供述が尋問の影響を強く受けやすいことを示しており、これは供述をそのまま事実として受け入れることの危険性を浮き彫りにしていった。また、裁判の過程で能力論の危険性が明らかになった点が注目される。能力論に依存した分析は、供述者の知的能力や精神的特性を証拠評価の基準とするものであるが、これには偏見や不適切な一般化のリスクが伴う。そのため、甲山事件では外的基準を適用するのではなく、供述者の「らしさ」や個別性に注目する新たなアプローチが取られた。このアプローチにより、供述の背景にあるコミュニケーションの文脈や関係性を重視する姿勢が裁判に導入され、この事件は、外的基準や能力論に依存せず、供述者の個別性やコミュニケーションの文脈を考慮する重要性を明確に示していると考えられる。また、冤罪を防止するためには、供述の信憑性だけでなく、その形成過程を適切に分析することが不可欠であるといえる事件であった。甲山事件では、供述者の背景や性格的特徴を考慮し、その供述が本人にとってどれほど自然なものであるかを評価するアプローチが取られた。これは、外的基準を一律に当てはめるのではなく、供述者の個別性を軸にした分析が冤罪防止につながると思う。
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授業内容の要約としては大体こういうことでした。しかし、「甲山事件では、供述者の背景や性格的特徴を考慮し、その供述が本人にとってどれほど自然なものであるかを評価するアプローチが取られた」という部分には、同意し兼ねます。「供述者の背景や性格的特徴」はどこでどう考慮されていましたか。後者はIRE連鎖等のことから導き出しているのでしょうか。これは彼の性格がどうこうではなく、彼が組み込まれたコミュニケーションがそういうものであったということしか言っていません。むしろそれ以上を言う必要はありません。能力論につながる可能性もあります。足利事件も同様ですが、供述者が供述の場で何をしているかが問われるのです。
6点差し上げます。