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22裁判心理学

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裁判心理学の掲示板です

管理人
作成: 2022/09/15 (木) 23:03:27
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119

「意見」

 今回の講義で、足利事件で使用されたDNA鑑定は、犯人逮捕に活用された初の事件となっていることから、DNA鑑定の精度が今までよりも低かったが、新しい鑑定ということで警察などの期待度が高かったのではないかと考えた。そのため、DNA鑑定の結果が出た時にこの結果が完全に合っていると思い込んでしまっていたのではないかと感じた。DNA鑑定が使用されたこの時期では、証拠能力はあるかもしれないが、この鑑定にも誤りがある可能性があると考えておけなければならなかったのだろう。
 また、足利事件については他の講義で扱われていたことがあり、ニュース番組で話している場面を見たことがあった。その時に、須賀氏が実際に体験した出来事の供述と自白の供述の言い回しに違いを感じることができた。自白に関しては、個人的に何回も同じことをいっているのか練習した後のような言い方だなと個人的に思った。さらに、自分の行動の供述だけで相手の反応などはなく、動作主連続がなかったように感じられた。しかし、実際に体験した出来事に関しては、動作主連続がほとんどの供述であり、話すスピードも流暢であった。足利事件を心理学の部分からみると、供述の特徴に関しては違いがはっきり見ることができるが、心理学を学んでいない人からするとこの観点からは見ようと思わないのではないだろうか。普通に自白を供述しているのだから、何も疑問はないと感じてしまうのかなと考えた。

121

 用語について注釈します。「証拠能力」とは、その素材を証拠として用いてよいことを意味します。たとえば「人相」が悪いからそれを有罪の証拠とすることはできませんね。人相には証拠能力がないということです。似た用語に「証明力」というものがあります。これは証拠能力を持つ素材(証拠)があることを証明する程度にかかわるものです。たとえば、鮮明な指紋は証明力が高いですが、かすれた指紋なら証明力は低いです。DNA鑑定についてはどのぐらいの照明力かを査定しておく必要があったのですね。当時の証明力は、2万人に一人を識別できる程度です。足利近郊の成人男性を全員調べたとしたら、同型と判定される人は20人ぐらいいたと言われます。指紋に比べると圧倒的に低いです。これ自体は心理学と関係しませんが、自白が虚偽であるという方向で弁護する動機づけにはなります。
 Sさんがテレビに出て話したことがありましたね。授業を受けた後に思い返すと、別の見方ができるのだと思います。そのことが実感されたのだとも思います。実感はいいのですが、感想にとどまりがちです。これは意見ではありません。意見には論評が含まれるものです。

4点差し上げます。
 

120

「質問」

 精神鑑定で、「代償性小児性愛」と診断していたが、小児性愛というのは聞いたことがあったが、代償性というのは精神鑑定を行った人が新たに考えたものなのだろうか。また、小児性愛と診断せずに、代償性小児性愛と診断したのには何か意味があるのだろうかと疑問に感じた。

125

 これと同じ疑問は動画の中でも発せられていたと思います。私の方こそ知りたいのです。精神鑑定について調べて教えてください。その前に動画の該当箇所を見返してみてね。「代償性」についても言及しています。

2点差し上げます。

123

「意見」
鑑定を行った精神科医自身が、心理検査自体を信用していないように思えるし、刑事などが持つ“勘”と何も変わらない方法で診断を下していることにショックを覚えた。実際大学3年生に人の人生が関わる精神鑑定を任せるという面においても責任感が低いと感じた。
下された診断に関しても、警察からの情報を元にしているように考えてしまうので、心理士や精神科医は警察側・被疑者側のどちらかに寄った立場で接するのではなく、中立の立場であることを常に意識することが必要不可欠になると感じた。
事件当時の自白で動作主の移り変わりが無いことに対して、ただ話を聞いているだけだと気づかないようなポイントに気づくことができたのは、すごいことだと思った。心理士のチームの一員が気づけたということだったが、この方が気づけたきっかけは何なのか気になった(暗記できるまで読み込む中でどこに疑問を抱いたのか)。内部基準・被疑者の持つ個人の特性を理解することで、証言をするときの違和感に気づくことにつながったので、ただ供述の違和感だけを追うのではなく個人を捉えることも必要だと感じた。
今までの事件の話を聞いても、どうにかして犯人を逮捕するために、いくつかの証拠を無視して強行突破で判決を出しているようにしか思えず、心理士が検証のために調べようとすると素人はやらなくていいと言われる。当時の警察は結構ずさんで、心理士の立場も弱いものだったことが分かる。また、話を聞いていて、当時の心理士が真相に近づきそうなのにも関わらず、周りから止められてしまい、何もできないというやるせなさを感じた。

128

 最初の二段落は感想ですが、本来どうするべきであったかなどを心理学を学んでいる者の立場から述べてくれると「意見」になったと思います。
 後から考えると、どうして気づかなかったのだろうと思いますが、なかなか気づかないものですね。「こういう視点で読んでみたらどうだろう」等、吟味の方針をいろいろ変えて試してみるしかないかも。個人の特性を理解することが証言をするときの違和感に気づくことにつながったのではありません。逆です。証言をするときの違和感から個人の特性が理解できたのです。「供述の違和感だけを追うのではなく個人を捉える」方法だと、次回の甲山や尼崎には難渋します。
 「素人」をどういう意味で使っていますか。心理学的知識や技能は心理学者との方が上というのは、さすがに裁判官でもわかると思います。裁判官の自由心証主義を侵すので嫌がられるのです。
 感想部分が多いので、次は意見になることを願っています。

4点差し上げます。

124

「意見」
  どんな資料も簡単に信用してはいけない。警察や検察官の調書や陳述書は、被告人を犯罪者と表現している。メディアで報道される内容のほとんどは日本の司法機関からの情報であり、弁護人が書く資料もひたすら弁護である。通常、警察や検察官は、裁判で出されなかった調書や捜査記録を残している。起訴後、これらの書類は刑事部検事から公判担当検事に移送されて選別され、有罪に適する有利な証拠のみが法廷に提出される。裁判所に提出されない証拠は、検察内部では残留記録と呼ばれる。証拠は真実を追うためにあるはずだ。しかし、捜査員の立件に便利なだけだ。検察は、残された記録を消極的証拠とまで呼び、「そんなことはいくらでもある」「意味がない」などと、当たり障りのない理由をつけた。誤審や記録が残っていることがポジティブな証拠であることに気づいても、耳が聞こえないふりをする。
 そのため現代では、取調べにおいて、捜査官による発問と被疑者の供述との相互検証、取調べ中の録音の必要性、供述の心理学的鑑定が、捜査や裁判のあり方に不可欠なことだと思う。

129

 「警察や検察官の調書や陳述書は、被告人を犯罪者と表現」するのは、警察や検察の仕事がそういうものだから仕方ないです。ただし、犯罪者かどうか(有罪かどうか)を決めるのは裁判ですので、その意味で警察や検察は被疑者を「犯罪者の可能性が高いが、違うかもしれない者」として扱うべきでしょうね。弁護人もそういう仕事です。異なる立場から陳述し、裁判官が総合的に判断を下します。法曹三者間でこういう役割分担をしているのです。証拠のすべてでなく、検察官が選別したものが証拠になるのは確かに問題です。残留記録を弁護側は見られないのでしたっけ? ここまでは心理学ではなく、法学の議論ですね。最後に心理学鑑定が不可欠であることを述べられていますが、それ以前に述べられた法曹三者の役割分担やそれぞれの仕事に対して、どういう意味で不可欠なのですか。ここを論じれば、裁判「心理学」の議論になったと思います。力点の置き場所が後ろの方にあるとよかったですね。

3点差し上げます。

126

「意見」
今回の講義から私は、心理学鑑定を行う際にこそ外部からの見方や当たり前に思ってることに振り回されることもあるのだと思いました。
特に足利事件の話で、鑑定に使う情報を現在の冤罪を訴えてるものではなく、罪を自供していた(言わされていた)ものを使用してしまったことについて、それは聴取直前の最も自然な情報を欲しいから、という話でしたが、それに対する弁護側の反応が、現在は無罪を訴えているのでそっちの情報を使って欲しいというものでした。
確かにそうだなと思う反面、聴取に慣れて嘘の記憶であっても本物だと思い込んでしまった場合を恐れてという点では、最初の方法も正しいなと思いました。

130

 すみません、言われていることが何を指しているか、よく理解できないです。「現在の冤罪を訴えてるもの」、「罪を自供していた(言わされていた)もの」とはどれのことですか。弁護士が公判速記録を使用するように言った理由は、「現在は無罪を訴えているのでそっちの情報を使って欲しい」からでしたか。調書は須賀さんが何を言ったのかわからないから、須賀さんが何を言っているのか(これが「生の声」)がよくわかる公判速記録を使って欲しいと言ったのではなかったかと思いました。
 意見ではなく「感想」になっています。「聴取に慣れて嘘の記憶であっても本物だと思い込んでしまった場合を恐れてという点では、最初の方法も正しいなと思いました」で終わっているからです。どうして正しいと思ったのか、だから何なのかを書くと意見になったと思います。

2点差し上げます。

127

 次回「甲山事件」の動画と資料をmoodleに上げましたので、始めて結構です。
 今回の採点対象となる投稿は締め切りました。お疲れ様でした。

131

「意見」

 elicitation sequenceについて、発問から応答、評価の流れ的には日本の学校の授業の形式と似ているのではないかと感じた。学校での一般的な授業の流れに似ているため、子ども達的にはこのような流れが一般的だと思うのではないだろうか。そう考えると、子どもたちにとっては発問相手の評価がない場合、発問内容と自分の応答が合っていないと判断してしまい、応答内容を変えてしまうことがあるのではないかと考えた。そうなってしまう子がいた場合でも、正岡君はその子たちよりも供述生成スキーマのような流れの中に組み込まれやすい傾向があるということなのかなと感じた。子どもの取り調べに関しては、このような可能性などが出てしまうため、取り調べの際は発問内容・方法に気を付ける必要があるのではないだろうかと改めて思った。
 さらに前回と今回の講義で、甲山事件と足利事件それぞれ1つずつの事件を見ていき比較していくことで、「らしさ」が表れる水準が同じではなく、1人1人で違うということを理解できた。その人の「らしさ」というのを考えた時に、その人の交友関係や振る舞いなど色々な観点から見つけることはあるが、規則性で限られた取り調べの中では「らしさ」というものを見つけるのは難しいと感じる。その中でも、今回取り上げていた事件のように、外的基準で見るのではなく、他の人となすコミュニケーションや発話の中などでその人の「らしさ」というものを見つけていくことで、証言の信用性を分析していく上では大事になるのではないかと考えた。

133

 elicitation sequenceが学校での教師と生徒のコミュニケーションに類似しているのはその通り。もともと学級コミュニケーションの研究で明らかにされたことです。学級コミュニケーションに似た取調べや尋問を行なうと、子供たちは特に取り込まれやすいということですか。そういうことはあるかもしれないですね。もう一つ知っていただきたかったのは、取り調べる側がelicitation sequenceのようなコミュニケーションを誘導だと思っていないことです。これは「意図せざる誘導」という形で触れました。
 取調べや法廷尋問には制約があって(「規則性」という言葉よりこっちの表現の方がいいと思う)、自由な語りはしにくいです。したがって「らしさ」も発揮しにくいのは確かです。外的基準の問題点と、「らしさ」の発見がその問題点を克服していることは理解してもらえたただろうか。
 「そうなってしまう子がいた場合でも、正岡君はその子たちよりも供述生成スキーマのような流れの中に組み込まれやすい傾向がある」という部分が、何を言っているのかよくわかりませんでした。もう一つ。「その中でも」でなぜつながるのかがわからなかったです。日本語表現の練習をしてください。

6点差し上げます。
 

132

「質問」

 日本の刑事事件で、講義で取り上げなかった事件の他に、先生が気になっている冤罪事件や裁判が長引いている事件などはあるのか気になった。よく取り上げられる事件だけではなく、あまり知られていない事件でも心理職の人が気になる事件はあるのだろうかと疑問に感じたためである。

134

 そういう好奇心はあっていいと思いますが、どうして気になるのかがこちらとしては知りたいです。それを書かないと、その疑問はあまり学問的なものと受け取ってもらえないです。浜田寿美男先生の本を読むと、いっぱい載っていますよ。我々の仲間が担当した事件だと、大崎事件とか。

2点差し上げます。

135

「意見」
今回は“一般的に”という言葉に引っ張られ、正岡君の供述に“見たままのことを話している”という前提が入ってしまった。この前提について、今回は取り調べについてであるが、カウンセリング場面においても“一般的に”という言葉に引っ張られるのではなく、個人単位で何ができて何ができないのか、話し方や周りの人物とのかかわり方(これはカウンセリング場面でしかできないのだろうか)を分析し、丁寧に汲み取る必要があると感じた。
ひとつの発問に対して、“いいえ”という応答をした場合や沈黙した場合にはその反応を受け入れるのではなく、“はい”というまで聞き続けるのには、取り調べ官の「確実に目撃証言を取りたい」という無意識的な考えがあったのではないかと思った。そのため、自分たちの見立て通りの証言を得ることができるようになるまで、しつこく聞いてしまったのではないか。また、正岡君が何度か質問を繰り返されることで「いいえ」や沈黙といった応答から「はい」に変わるコミュニケーションをとった理由として、知能が関係しているのか、知的障害の有無はあまり関係がなく、ただコミュニケーションの特性(知的障害が無くてもこのような応答をする可能性がある)として発言を変えたのか気になったので、詳しく知りたい。

「質問」
現在もなお、調書を時系列順に並べて分析を行う手法が取られているのか、取り調べの可視化に伴い、取り調べ中の録画や録音を用いて分析が行われているのでしょうか?

140

 心理臨床では一般的な物言いもありますが、あくまで個人を理解するための道具として位置付けているようです。公認心理師のテキストとかにはそう書いてあります。しかし、一般と個別がどういう関係にあるのか、両者をどうつなぐかについて明確なことは言われていない気がします。そういうことを習ったことありますか?
 無意識ではなく意識的にやっていると思います。一方で反復質問の機能を知らない。彼らは「記憶喚起」だと思っているようです。自分達の仮説が支持される供述が得られるまで、質問をやめません。
 知能を理由にしても確率的言明にしかならないのは、足利、甲山の鑑定で強調されたことです。「どうしてそう言うことをする人なのか」を探っても確率的言明にしかなりません。むしろ尋問コミュニケーションのなかで、この人は「どのようにしてしまった人なのか」を特定し、そういうことをすることは体験を語ることが期待されている者としてどう評価されるべきかを問うべきです。あなたの関心が知能に行ってしまっているといるのは、足利と甲山で得られた教訓からまた一歩後退してしまっている気がします。

 時系列順に並べたときに見えてくる供述変遷が、供述者に帰すべきものなのか、取調官に帰するべきなのかを判定する浜田先生の供述分析は、可視化の時代にはそぐわないかもしれません。我々と仕事をしたある弁護士(足利事件の控訴審と再審の弁護団長)は、可視化の時代には解釈をともなう浜田流供出分析よりもスキーマアプローチ(第14回の授業で詳しくやります。我々が開発した方法です)のほうが適しているとコメントしていました。これは録音録画、あるいは逐語などのコミュニケーションの姿が明らかな時に向いている方法です。

5点差し上げます。

136

「疑問」
 足利事件、甲山事件では外部基準のあてはめを放棄することでその人の「らしさ」特徴を見つけることが出来たが、個人的にはその特徴はその人の知的障害以外にその人の生育環境が関係あるのか疑問に感じた。(自分の意見がしっかりと言えないということは健常者であれば抑圧的な環境で育ってきたことが考えられるなど)上の方との疑問に類似してしまっているが、個人的に気になったことがそのような事件に影響を出してしまう位の「らしさ」は健常者にもでてしまうことがあるのだろうか。それか外部基準の中に知的障害があるから「らしさ」がでてくる理解の仕方であっているか。

141

 「その人らしさ」は知的障害であるとかないとかを問題にしません。原因探しをするのではなく、今どうあるかを明らかにするのが「その人らしさ」です。生育環境もまた原因ですので関係ありません。原因探しをしないという発想の転換は難しいですが(どうしてもしてしまいますよね)、それこそが足利と甲山で我々が強調した(すでに浜田先生が強調していましたが)点です。ここは理解してくれたでしょうか。

3点差し上げます。

137

「疑問」
 以前面接をマニュアル化するといいのではと考えていたが、マニュアル化した面接の中では「らしさ」を見つけることは難しいと感じた。「らしさ」を見つけるためのマニュアル化も難しいと感じた。
 先生方は試行錯誤されながら「らしさ」を見つけていきましたが、今はいろいろな心理学者が「らしさ」を見つけるための調べ方のパターンをどんどん増やしている途中だと考える。そのなかで新しい事件があった際はまず、今までの事件のパターンに当てはめて当てはまらなければ新しい「らしさ」を調べていくというやり方が基本的なものなのだろうか。

142

 マニュアル化した面接とはどういうものか、そしてどういう点で「らしさ」を見つける難しさがあると考えますか。ここを聞かせてほしいです。なお、司法面接のような自由な語りを最初に持ってくるやり方は、足利の須賀さんのような「らしさ」であれば発見が容易です。しかし「らしさ」はどの水準で現れるかはわからないので、司法面接だとかえってみつからない「らしさ」もあるかもしれないですね。甲山の正岡くんは、誘導的発問に弱いという「らしさ」を持っていましたが、司法面接ではこれは捉えにくいです。誘導しないから。ただし、司法面接を正岡くんにしていれば、検察側が支持したような目撃証言は出てこなかったでしょう。「らしさ」の発見はできませんが、体験のない正岡くんが体験のない人と同定されるのですから、それはそれでいいと思います。「らしさ」の水準や形態はまだ予期しにくいから、いろいろ試すしかないかもしれない。「らしさ」を見つける方法を探っている心理学者は知る限り3人しかいないです。私を含めてです。全員、この授業で扱っている刑事事件を一緒に担当した人たちです。これは最終回の授業でお話ししますが、「らしさ」は結局環境と触れ合った痕跡が語りに現れるかどうかを探れば見つかりそうです。

4点差し上げます。

138

「感想」
前回の足利事件の時もそうでしたが、やはり証言する側に真実を話せるかどうかの要素が微妙な人の証拠能力を確かめるのは難しいなと思いました。そのため、今回の正岡君らしさを見つけるという話がとても印象深かったです。

143

 足利事件以降の話は、すべて「らしさ」を見つける分析になります。この方法を理解してくれると嬉しいです。この授業で扱っているのは、体験を持っている場合の「らしさ」ですが、それ以外の場合でも「らしさ」は特定できるかもしれないですね。「パーソナリティ」なんていうのも「らしさ」の一つとして考えられるかもしれないです。あと、悩みを生み出してしまうクライエントの認知の「らしさ」とか。

2点差し上げます。

139

次回「尼崎スナック狙撃事件」の動画と課題をmoodleに上げました。始めて結構です。課題締め切りは12月14日(水)午前9時です。
「足利事件」の採点対象となる投稿は締め切りました。お疲れ様でした。

144

「意見」

 今回の事件で、大野のようにほとんどが曖昧な供述で明確な情報を提供していないのにも関わらず、ほとんど大野が言った供述のように解釈されていたことや大野が尋問をコントロールしていたことがとても衝撃的だった。
 大野が尋問をコントロールしていたことについては、講義でも言っていたように、questionがanswerをコントロールしていく機能があるというのは、一般的なことであるというのは知っていたが、発問-応答の流れが変化してしまうというのは初めて知り、このようなことが起きてしまうのは尋問者にとっては特に気を付けなければいけないことだなと感じた。
 また、講義で紹介されていた大野の供述は、ほとんどが曖昧な応答や分からないなど、確定的な供述はしていないため、尋問者からの検事調書の確認が行われていた。その際に、大野からではなく、尋問者が情報提供をしていたことについては、情報の確認を行っているだけなのに、無意識的に事件の情報提供をしてしまっていたというのは、個人的には何とも言えない気持ちになった。
 講義の中で、「検事調書は要約されて書かれているもの」と先生が言っていたが、要約して書かれているという部分が今回のような尋問者が情報提供をしてしまったことに影響しているのではないだろうか。実際に誰がどのようにどんな発言をしたかが、最初から最後まで書かれているものを見ておけば、大野が確定的に発言した内容なのか、それとも尋問者が聞いた内容なのかがはっきりわかるだろう。しかし、検事調書という要約されたものを見ていたため、誰がこの発言をしたのかなどは要約を読んだ人の解釈によって変化してしまう。全面可視化がされていない時期にはこの方法が一般的だったのかなと感じているが、このやり方のデメリットの部分を理解し、検事調書前の尋問の状況や内容を大変ではあるが、しっかりと共有しておくことが大事だったのではないかと考えた。

 足利事件、甲山事件と今回の尼崎スナック狙撃事件のような供述の信用性の鑑定を行ったことで、警察や検察の取調べの発問方法などの問題点を見つけることができ、今では全面可視化を行い、問題があった時にすぐに原因を見つけることができるような方向性になっていると考えると、過去の事件の問題点をしっかりと改善しているのではないかと3つの事件から感じた。

146

 法廷での検察官尋問でも「・・・と調書に書いてある」のような質問が、検察官からなされていましたね。あなたがおっしゃるように「実際に誰がどのようにどんな発言をしたかが、最初から最後まで書かれているものを見ておけば、大野が確定的に発言した内容なのか、それとも尋問者が聞いた内容なのかがはっきりわかる」はずです。大野ののらりくらりとした応答が、捜査時と同じであることがわかり、彼が肝心な情報を自ら提供していなことが明らかとなったかもしれません。可視化なしの調書のみで尋問に臨むことに大きな欠陥があることは、当時は認識されていなかったと思います。調書は今もなお重要な捜査資料であり続けています。ただ当時と異なるのは、取調べがコミュニケーションであることが次第に理解され始めたという点でしょう。この認識がないと、可視化しても意味ないんですよね。認識があるからこそ、可視化資料の活用もできるのです。

8点差し上げます。

145

「質問」

 今回は供述に焦点を当てて分析を行っていたが、供述に焦点を当てて分析が行われないような事件があった時にも、曖昧な供述が本人自身で言ったかのような供述として解釈されていた可能性があるのか疑問に感じた。もしも、そのような可能性が起きていた場合に、事件の核心部分には影響しないと判断されてあまり追及されないということはあるのだろうか。この供述は、事件には関係ないだろうと考えられ、特に重要視されない可能性も出てきてしまうのではないかと考えたためである。

147

 足利事件はまさにそうだったと思います。DNA鑑定が万能の技術のように考えられ、須賀さんの否認供述が真摯に吟味されてはいませんでした。この動画および資料では、事件の内容に詳しく触れることはできませんでしたが、足利事件の全容に触れている本がいくつかあるので、それを参照してくれるとあなたが思っているような事態を発見できると思います。

4点差し上げます。

148

「意見」
以前講義で出てきた「取り調べは情報収集の場である」という言葉について、この情報収集とは事件に関することだけだと思っていたが、事件だけでなく被疑者についての個人を知るための情報収集であると強く感じた。取り調べというコミュニケーション方法を通じて、返答の仕方や会話の紡ぎ方など、どのような特徴があるのかを拾うことができる。
検察官と大野のやり取りを断片的に見て、大野は何を求めている(普通なら減刑を求めたりするような気がする)のだろうと疑問に思うほど、自分の供述に芯がないように感じた。この疑問については、講義でも話されていたように、責任転換のための逃げ道を作っていたのだということを知り、大野の計算高さに驚いた。実行犯として逮捕されたからこそ、検察が何を知りたいのかを引き出すような回答(どこまで情報をつかんでいるのか探る意味もあったように感じた)をし、その事柄について核心を突くようなことは言わないという姿勢を見て、大野は頭の切れる人物だと感じた。
今までの事件でも、取り調べを行う側は、自分が持っている情報が正しいかどうか確かめることを一番に考えていたように感じたので、一度客観視する必要があったのではないだろうか。

153

 大野の人となりについては、感想として伺っておきます。本質部分ではないので。確かに、犯罪常習者であるヤクザには、こういう身の振る舞いが巧みな人間が散見されます。頭がいいです。
 「返答の仕方や会話の紡ぎ方」という情報を収集する場としても、取調べを活用できるという意見は傾聴すべきと思いました。話された内容だけが記載されていますが、それ以外の供述者の特徴について記してあってもいいと思いました。重要な捜査資料になるはずです。しかし、現状はそうなっていない。体験内容と情状についてしか収集しないのはまことに問題が多いと思いました。ここを中心に論じてくれるとよかったと思います。

4点差し上げます。

149

「疑問」
 大野の曖昧な返答はもともとある癖からきているものなのか、それとも供述の時に突発的にできたものなのかが気になった。
また「曖昧な応答」から「記憶のなさ」への移行も図ったことなのか、それとも自分のその場しのぎの考え故にたまたまの結果なのだろうか。

154

 どうして気になったのですか。また、その問いが持つ心理学的な重要性とは。質問はこういうことを考えてしたほうがいいです。
 供述者の意図を考えてもあまり意味がないと思います。意図があるのかないのかが判明すると、何かいいことがありますか。供述分析の主眼は供述の信用性、すなわち供述が実体験に依拠しているか否かの判別にあります。それにかかわる限りで、あなたの質問は意味あるものになります。しかしそれがわからない。

2点差し上げます。

150

「意見」
  手にする資料の多くは、誰かがまとめたものである。今回の講義で取り上げた大野の供述調書も、事実を逸脱した加工がされたものだ。全面可視化がされていない時期は供述をもっと多くの角度から見る必要があると思う。検察官だけが調書を書くわけにはいない。検察官の心理的傾向が、取り調べの結果に影響を与えるからだ。人は立場なしに物事を見ることは難しい。さらに大野は取り調べの流れをコントロールし、記憶喪失や曖昧な返答で取り調べに対応した。これで判決は根本的に変えた。

155

「全面可視化がされていない時期は供述をもっと多くの角度から見る必要がある」と言われても、もう過ぎたことですからね。今となってはどうしようもないので、未来への教訓とするしかない。で、どういう角度から見ればいいと思うのですか。検察官の心理的傾向とは。それらが今回の事件でどうクローズアップされるのでしょうか。具体的な事件を扱っているのだから、一般的なことではなく事件に即して語った方がいいように思えます。

2点差し上げます。

151

「感想」
会ってから間もない人をどんな人なのかを判断するのは、犯罪を犯した犯してないに関わらず難しいものですが、今回は尋問の時の発言や裁判でのやり取りから、それを読み解けるのだと教えてもらえました。
もちろん証人が子供であったり、証拠能力に疑問があるなどの例外はありますが、私自身被告人などがどこまで嘘をついているのか分かるのか疑問に思っていたところがあったので、すごく分かりやすかったです。

156

 よく理解してくれて嬉しいです。この事件に特有の心理学的問題(大野と検察官のやりとり)を論じてくれるとよかったと思います。

152

年内最後の投稿でした。お疲れ様。採点対象の投稿は締め切ります。
次回は年明けになります。動画と資料は授業回の前の週の水曜(4日)までにはmoodleにあげます。よいお年を。

157

次回「スキーマアプローチ」の動画と課題をmoodleに上げました。始めて結構です。課題締め切りは1月18日(水)午前9時です。

158

「スキーマアプローチ」への採点対象となる投稿は締め切りました。と思ったのですが、前回の締め切り設定を間違えていることに気づきました。11日とすべきところを18日としていました。そこで「スキーマアプローチ」の締め切りは告知通り18日にします。
 次回「ナビゲーション実験」の動画と資料をmoodleに上げましたので始めて結構です。締め切りは1月18日(水)午前9時です。締切日が「スキーマアプローチ」と被りましたので、投稿はどちらに対するものかがわかるようにしてください。

159

個別性追求のジレンマについて心理学者が個別性を追求することは、裁判官の「自由心証主義」に抵触する恐れがあると学び、たしかに他職種の領域に踏み込むは良くはないかもしれないと思った。しかし、「心理学者側から見た個別性」という裁判官自身の判断材料の一つとして全面的に受け入れるべきではないかと個人的に考える。先生の説明だとこの「判断材料の一つとして受け入れる」という部分は裁判官の性格次第だということがわかった。自由心証主義に抵触しているという理由で受け入れない裁判官がいた場合(いないかもしれないが)、事件解決という目標との間にジレンマが起こるのではないだろうか。

また、心理学的視点の考え自体まだ新しいものだと思うので心理学者側から見た個別性の有用性を認めない場合、その背景には心理学に対しての理解がまだ浅いことや、上記で述べた理由も少しは含まれているのではないかと考えた。

そこから疑問に思ったのが、先生が事件を担当した際に裁判官などの反応を見て裁判における心理学的な考え方は浸透していると感じているかどうかが気になりました。

160

すみません、スキーマアプローチについてです。

163

  個別の人(被技者・被告人)の体験の有無を判定する力をスキーマアプローチが持っていて、それが自由心証主義に抵触するというなら、心理学者ができることは確率的な法則を提示することになります。しかしこれを出すと、三村事件の時のように「この証人については該当しない」という評価を裁判官はしてくることがあるので、またまた困ってしまいます。この人は例外だという評価に対抗して、個別性を追求する方法を開発したのですが、そうしたらそれは自由心証主義に抵触するという。裁判官はどういう人かと思いますね。スキーマアプローチの成果を受け入れてくれる裁判官もいるので、やはり性格次第となるのでしょうか。それも怖いと思います。
 裁判官、検察官、弁護士の法曹三者は、確かに心理学の勉強が足りていない気がします。法科大学院ができたとき、心理学の授業を必修にするかどうかが議論になりましたが、結局必修にはなりませんでした。心理学が一番浸透したのは、司法面接でしょうかね。最近は心理学に対する抵抗は少なくなっているとは思います。

8点差し上げます。

168

 同じことを繰り返してしまいますが、起こった事件に対して事実に基づく判決を下すのが裁判官の役目だと考えます。なので受け入れる入れないという部分が性格次第になってしまうのはおかしいものだと思います。
 「この人は例外だという評価に対抗して、個別性を追求する方法を開発したのですが、そうしたらそれは自由心証主義に抵触するという。」というこの流れは矛盾を感じ、結局何を求めているのかわからなくなります。少なくとも心理学的視点、考えが使えるものであるという可能性が高いと認められているからこそ公式の場での心理学者の意見が出されていると私は思います。しかし、その部分の認識をするより前に裁判官の性格に影響した何か(プライド的なものなど)に邪魔されているのかなと思いました。どれぐらい受け入れるかどうかに関してのルールがあれば手っ取り早いのかなと思いますがそれも難しいだろうなと感じます。
 
 先生のフィードバックを見て日本の法律の成り立ち方と他国では違うということ思い出しました。日本はもともとあった法律に実際の事件を当てはめる成文法主義で、アメリカなどは事件が起こり、その後に事件に伴った法律をつくる判例法主義ということです。ある意味日本はあらかじめ作った型にはまるような仕組みにしている部分が現在の裁判官対応などに影響を与えているのかなと感じました。実際アメリカなどは心理学者の発言力が日本より強いイメージがあります。

185

 個々の裁判官はもちろん違いますが、組織体としては統一を持って当たっていただきたいと思います。自由心証主義というものがどういうものか、ちゃんと調べたほうがいいですね。裁判官の性格次第とか、プライドを優先するようにはなっていないはずです、さすがに。心理学は一般的な法則を専門知識として提供し、それをどう特定事件にあてはめるかは自由心証の範疇なのかもしれない。「この人は例外だ」という判決文も、こちらが提供した心理学的な一般法則を自由心証にしたがって、吟味した結果であるのでしょう。だからここにケチをつけたり、個別性に対応できる心理学的方法を開発したりすると、「自由心証を侵害する気か」となるのかも。最近では、大崎事件という昔の事件の再審請求の際、新証拠の提示にスキーマアプローチが使用されました。これを裁判所が好意的に評価したので、法学者や心理学者は結構驚きました。
 刑事訴訟法という法律が、どういう環境として心理学の適用範囲を制約しているか、これは裁判心理学の一つの話題となりそうです。

6点差し上げます。

161

「意見」

スキーマとコミュニケーションについて
 会話などの中からその人にしかない癖・個性を拾っていく際に足利事件では違和感として感じる部分をその人にしかない動作主交代と動作主連続と捉えてそこから考えていることがわかった。また、尼崎スナック狙撃事件の被告人では会話の中で「違和感が無さすぎる」という部分を違和感として注目することで被告人が質問をコントロールしていると考えていっていた。この2つを初めて比べて考えて気づいたことだが、ぱっと見同じ「会話」という単位のなかで真逆のことに注目しているように見えた。
しかしこれは単位の設定をもっと細かくすると違いが分かりやすくなると考えた。例えば「内容」「語尾」「発音」など「会話」の中から「あらかじめ」細分化しておくことで私のように慣れていない人でも個性を見つけやすくなる、理解がしやすくなるのではと考えた。

162

再度すみません、こちらもスキーマアプローチです。

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 スキーマアプローチは内容には注目しません。何が体験されていたか、体験者以外誰もわからないし、体験を述べているとされている被疑者・被告人や証人に本当に体験があるかわからないので。それ以外の、行為の部分に注目します。発話の「仕方」とか話者交代の「仕方」のような。「語尾」「発音」とは何を示しているかよくわかりませんが、行為に着目するのが基本です。どういう行為のどの部分に、どのように体験の兆候が出現するかわからないので、慣れていない人が見つけやすくなるというところまでは行っていないですね。それに単位を細かくするということではなく、「どこに」が大切なのです。足利事件などの実際の刑事事件で発見された部分と私のナビゲーション実験で分かったこと程度は、当たりをつけられるようになりました。

6点差し上げます。

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スキーマアプローチ

「意見」
一般的に言える事柄を個人に落とし込むとき、裁判官の能力が問われるものだと感じた。裁判官が心理学に対する信頼感が無かった場合、いくら心理学的見解を提出したとしても、その部分に関しては検討されることなく、判決が出てしまうのだろう。欧米などの国は裁判において心理学の考え方は日本より尊重されているイメージがあり、この理由に心理学が一般の方の生活に身近なものではないという理由があるのではないかと思った。カウンセリングを受けることが珍しくなくなった場合、裁判における心理学の役割も大きくなるのではないかと思った。
心理学は多くの統計やデータを元に理論を展開していくため、“一般的”に言えることを言うしかないが、裁判の場では“個人”についての言及が求められるため、その部分の心理学に対する認識のギャップを埋めていく必要があると感じた。

スキーマアプローチは一般的(多くの人が行う行動)の中にある個人差(フォームなど)に着目しているものだと考えた。取り調べは取調官と被疑者との会話であり、その会話という誰もが行うものの中に、問いに対する答えかたや自分の経験を話す方法など、マクロな部分に着目し、小さな違和感を漏らさないようにするという力が求められると学んだ。今まで挙げられてきた事件に関してはスキーマアプローチが有効であることは分かったが、それらのほかにスキーマアプローチが有効になる事件の特徴があれば知りたいと思った。

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 「一般的に言える事柄を個人に落とし込む」ことと、「心理学への信頼」は別物です。心理学を信頼していても、一般的に言える事柄を個人に落とし込むことは難しいです。これは裁判官の問題ではなく、心理学(の研究方法)の限界なのです。このことを個別性の問題として、足利事件以降繰り返し述べてきたはずです。
 「その部分の心理学に対する認識のギャップ」とはなんですか? 一般的言明が個別事例に該当するかは確率的なものであり、一種の「賭け」です。認識のギャップではないと思います。
 「個人差」と言うと代表値を基準にしている印象があるので、「個別性」を使用しています。個別性は代表値からのずれの程度ではないからです。注目点は必ずしもマクロではありません。スキーマアプローチは理解が難しいですが、その理由の一つとして、代表値に基づく通常の心理学のアプローチが理解されていない可能性があります。代表値や確率的言明に基づく心理学とは、一体なにをしているのかをまず理解した方がいいと思います。
 「意見」となっていますが、「こう思う」のみで、根拠が不在のため説得力に欠ける「感想」に止まっているように思えます。

4点差し上げます。