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法介の『徒然なるままに』 New トピック !! / 64

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法介 2023/12/28 (木) 07:46:15 修正

天台智顗や日蓮大聖人は、「本覚思想」や「如来蔵思想」を説いてはおられません。日蓮さんにあっては、天台宗のそういったチベット密教化を批判されて天台宗を去って行かれた方ですので。

日蓮宗の妙覚寺のサイト記事からです。
http://myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index69.htm

 また、日蓮聖人は61代座主顕真(1131~1192年)を、「一向謗法の法然が弟子」『神国王御書』(同889頁)となったとみています。顕真は承安3年(1173年)に比叡山より大原別所に隠棲し、文治2年(1186年)に勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされます。翌年勝林院で不断念仏をはじめ建久元年(1190年)に天台座主に就任しています。日蓮聖人は浄土信仰に傾斜した顕真を法然の弟子とみられ、この顕真が座主になったことを謗法とされたのです。

日蓮聖人の日本仏教史観の特徴は、正法である法華経の伝来と発展に注意が注がれていました。聖徳太子の仏教興隆の徳を称え、南都仏教の伝来も鑑真を法華仏教の先駆者として位置づけ、それを最澄の天台法華宗の前提とみなします。最澄は南都仏教界と対決し、比叡山を建立して法華経を宣揚してきましたが、日蓮聖人の感心は、その後の天台宗の座主が、最澄の意思通りに法華一乗を伝えているのか、という懐疑から謗法へと視野が移ります。

日蓮聖人は最澄が受け継いだ、天台大師の純粋な法華教学に、密教を混入させたことを、比叡山は濁れる山と批判しました。では、日蓮聖人はいつころ密教化したとみていたかというと、さきにのべたように、円仁・円珍の密教受容が叡山を真言宗に近づけたと指摘されたのです。

佐渡配流以前は、安然の『普通広釈』などを真言批判に引用していますが、身延期には比叡山を密教化させ、最澄に背反した円仁に源信をくわえて、正統天台の獅子身中の三虫と批判するようになります。円仁は天台宗を密教化し、安然は禅宗化し、慧心僧都源信は念仏化して最澄の法華思想から離れることになったのです。

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