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法介の『徒然なるままに』 New トピック !! / 47

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法介 2023/12/26 (火) 05:08:03

次に現代語訳です。

 像法時代の後半の五百年について述べよう。中国では唐の初めであり、太宗皇帝の時であった。このとき玄奘三蔵は貞観三年に出発してインドへの大旅行にたち、十九年(十七年とする説もあり)のあいだ百三十か国の寺塔を見聞して多くの論師に会いたてまつり、八万聖教・十二部経といわれる一代仏教の奥底を習いきわめたところ、そのなかに法相宗と三論宗という大乗の二宗があった。この二宗のなかで法相大乗宗というのは、遠くは弥勒菩薩が降臨して説いた法を無著菩薩がひろめたといわれ、当時は戒賢論師にまで伝えられていた。玄奘三蔵は戒賢論師からこの法相宗を習い伝えて中国へ帰り太宗皇帝に授けたのである。

 この法相宗の精神は、仏教は衆生の機根に従うべきであるという。ゆえにすぐ成仏のできる一乗の機根の衆生には、三乗の説法が方便であって、一乗の説法が真実である。これは法華経等である。これとは逆に三乗の機根の衆生のためには、三乗の説法が真実であり、一乗の説法は方便である。これは深密経・勝鬘経等である。天台智者大師はこの旨をわきまえないで、法華経のみが即身成仏・真実得道の経典であるといっているが、天台は誤りである等の論議を立てているのが法相宗である。

 しかも太宗皇帝は賢王である。当時はその名を天下にひびかすのみならず、古代の伝説にある三皇・五帝よりも勝れているとたたえられて、その名は四海に鳴り響いていた。中国全土を平定したのみか、西はインドとの国境である高昌まで、東の方は高麗までの一千八百余国をなびかし、その勢威は国の内外にまで仰がれた賢王であった。玄奘は実にこの賢王の帰依を受けていたのである。ゆえに、天台宗の学者の中にも頭をさしだす人は一人もいない。そして法華経の実義は、すでに一国に隠没してしまった。

 同じく、この太宗の太子の高宗および高宗の継母たる則天皇后の時代に、法蔵法師という者があった。天台宗が法相宗に襲われているのを見て、前に天台の時に破られた華厳経をとり出し、華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てた。太宗の第四代・玄宗皇帝の御代、開元四年、同八年に、西の方インドから善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵のいわゆる三三蔵が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持ってきて真言宗を立てた。この宗の立義によれば、教に二種類あって一には釈尊の顕教であり、いわゆる華厳や法華である。二には大日如来の密教で、いわゆる大日経等である。法華経は顕教の中では第一であるが、大日の密教に対すれば、極理は少し同じであるけれども、事相の印契と真言とは法華経にまったく説かれてない。ゆえに法華は身・口・意の三密が相応しないから不了義経である。

 以上のように、法相・華厳・真言の三宗は、一同に天台法華宗を破って各自の邪義を立てたけれども、天台大師ほどの智人が法華宗の中にはなかった。内々はこれらの邪宗はいわれのないものだと知っていたけれども、天台のように公場で論じなかったので、上は国王大臣より下はいっさいの人民にいたるまで、みな仏法に迷い、衆生の得道は、みなとどまってしまった。これらの事件は、像法の後の五百年の中で初めの二百年――仏滅後千六、七百年のころであった。

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