知佳
2024/05/11 (土) 16:31:33
c5611@909a7
拐かし (かどわかし) 第一話
俄か船頭の忠八が全身汗みずくになって舟を漕いでいた。荷舟が引き起こす波紋で、横川に映った月影が揺れ、砕けた。
東岸は武家屋敷が立ち並んでいるため、日が暮れると森閑としている。 西岸は本所長崎町の町家だが、町並みは既に寝静まっていた。
何処かで犬が遠吠えし、それに呼応するように、また別のところでも犬が吠えた。
「長崎橋の下をくぐったぜ」
荒い息を吐き、滝のように流れる汗を袖口で拭きながら、忠八が誰ともなしに告げる。
手拭いで頬被りし、老けたなりはしてはいるが、年の頃は二十代半ばだった。 頬骨が張り、小鼻が横に広い。 汗で濡れた顔は疲れからか、どことなく青ざめていた。
舟の中ほどに荷物らしきものが積まれており、蓆が掛けられていた。 忠八の声に応じるようにその蓆が動き、下から羽織姿の武者が現れた。 名は孫兵衛、年齢は三十を超えたばかり。 額が広く、鼻梁が高い。 唇を固く引き結んでいた。
櫓から棹に切り替えた忠八は、ややぎこちない動作ながら慎重に舟を河岸場に寄せていこうとした。 が、舟は川面を滑っていた勢いそままドシンと音を立て岸辺にぶち当たった。
「おお~っと、 気を付けろい」
威厳を正さねばならない孫兵衛であったが、慌てて舟縁を掴み、川に落ちそうになる躰を支えた。
見れば舟尾の忠八も、孫兵衛と同じように棹に取りついて躰を支えている。
通報 ...